「古典」という言葉はよく使われる言葉だが、実はそれ自体としては意味を持たないあいまいな言葉なのである。ある限定した領域、あるいは地域、つまり、「・・・の古典」とか「・・・における古典」とかいう何らかの限定がついて初めて意味を持ってくる言葉だからである。「源氏物語は日本文学における古典である」というような文脈で使われるのである。しかし普通私たちは、あまり厳密にではなく、漠然と「古典」ないしは「古典的」という言葉を使っている。「現代ではなく、時間的に過去のもので、その分野では規範的で優れたもの」というぐらいの意味で使っているのである。 Read More →

「岬」という言葉には、ここではなくさらにその先という意味合いがある。私にとって岬は「その先にはもう行けないが、その先への思いはどこまでも続く」といった漠然とした広がりとあこがれにつながっている。
「岬」という言葉に最初に出会ったのは、戦後すぐラジオ番組で全国の天気という番組だったと思う。「足摺岬では南南東の風、風力2、晴れ、、、」と言った放送を聞いていた時だったと思う。小学生低学年の頃だったので、足摺岬がどこにあるのか知る由もなかった。どこか南の遠い海の近くの場所だろうぐらいで、四国にあるということさえ分かっていなかった、と思う。高校生ぐらいになってからだったと思うが、『足摺岬』(吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、木村功、津島恵子主演、1954年)という映画を見た時、子供の頃聞いた言葉がある実感になったように思った。いい映画だった。いま見ても感動がある。思い込みが強いからかもしれない。それからその映画の原作が田宮虎彦であることを知り、その小説も読んだ。田宮も戦時中は左翼学生だった。戦時下本郷菊坂の下宿に住んでいた主人公の学生が、同じ下宿に身を寄せていた親しい教授がマルクスなどの左翼の本を持っているというだけで官憲に連れ去られるところに出会い、また想いを寄せていた食堂で出前の仕事をしており、自分の洗濯の手伝いや身の回りの世話をしていてくれた女性が、家の事情で郷里の足摺岬の近くの村に帰ってしまってから、主人公は生きる意味を失い、自殺を考えて足摺岬へと向かう。そこで病気になり、その女性に看病され、薬売りの男等に励まされ、再生していくきっかけをつかむ、といった話で、平凡といえば話は平凡だが、菊坂の狭い下宿と足摺岬の風土が当時の時勢と若者の心情をつなぎあわせていて、映画としてよく出来ていると思う。 Read More →

「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に」
ー立原道造『のちのおもひに』よりー

先日、長野県伊那市に住む高校生の頃の同級生夫妻と、上田市にある「無言館」とその前身である「信濃デッサン館」に行った。無言館に一緒に行こうと以前から話し合っていたが、なかなか果たせなかった。久しぶりの再会だった。戦没者画学生の作品や遺品を集めたその美術館は上田市の西北のかなり離れた山の中の塩田平と呼ばれる丘陵地帯にあり、六月末の緑濃き森に囲まれて静かに建っていた。梅雨の合間の明るい光が、装飾の全くないセメントの建物をやわらかく照らしていた。正面の小さな細い入口の上に、

戦没画学生慰霊美術館
無言館

という文字が刻まれていた。「無言館」という文字だけが影のようにくっきりと見えている。中に入ると何かが起きそうな予感がする建物である。写真や本で見たり読んだりしてその概要は分かっているつもりだったが、いざその建物の前に立つと、全く異なった感慨が湧いて来るものだ。その美術館についての感想はまた機会を見て書こうと思う。
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旅することは楽しい。だが、なぜ楽しいのか、その理由は殊の外難しい。自分で旅をし、また旅の本をいくら読んでもその謎めいた旅することの楽しさの理由や意味はよく分からない。ただ確かなことは「旅とは、ここではないどこかへ移動することだ」ということである。しかしそれは旅ということの定義をしているだけであって、旅する楽しさの根拠ではない。最近感ずるようになったのは、旅する楽しさは淋しさと相関関係にあるということである。そんなことは分かりきっている、誰でも言っていることだ、と言われそうだが、もし旅にある移動が伴うとすれば、その移動は行ったり来たり、楽しかったり淋しかったりする相互関係という移動ということではないかということである。 Read More →

以前、「英語仮名交じり文は可能か」という文章を書いた覚えがあるが、最近新聞や雑誌、テレビなどで話されたり、字幕になったりしている日本語を聞いたり、読んだりしていると、日本語も変わりつつあると日々感じている。

言語学者でもある今野真二氏に『日本語のミッシング・リンク』という著書がある。昨年刊行された書物である。副題が「江戸と明治の連續不連続」となっている。「ミッシング・リンク」という表現自体がそれほど一般に使われる言葉でもないし、その内容は更によくわからない。ここで著者は、連続していることが期待される二つの事柄に関して、それが連続していないように思われる、その「間隙」をミッシング・リンクと言っているのである。今野氏は江戸時代の日本語と明治期の日本語のあいだにその間隙があり、それはある「断層」であり「和語と漢語の融合態」から「漢語を(一方的に)減らしたのが、ある時期からの明治期からの日本語ではないか、というのが本書の主張の一つである」と書いている。もしその考えを現代の日本語の中で受け止めるならば、昭和と平成の間にも「間隙」としての「断層」があるように見えてくる。その断層は、おそらくワープロやコンピューター(PC)のワードなどで文章をよく書くようになったことと深く関係していることは間違いないように思う。その結果、まず文章を書くとき、横書きが多くなり、特別な場合でない限り、手紙さえ横書きになりつつある。メモを縦書で書く人は現今皆無になってしまっている。それに平行して生じてきたのが、英語の、いや日本語化した英語の氾濫である。それが良い悪いと言っているのではない。ただ、それがなんとも言えない煩わしさに感ぜられるのは私だけだろうか。まさに「もとからの日本語を減らし、わけのわからぬまま英語をカタカナにして多用するようになったのである」やはりそこに、今野氏の言う断層が現れている、と言っていいだろう。つまり、われわれの現今の日本語はそのように変化しつつあるということだ。ただ明治期の人々は言語の変化に意識的であったということには注意しておく必要がある。そこが重要なのだから。明治期の「言文一致」運動なども一つの意識的に考えられ意図されたた運動だった。しかし、現今の文章は何の抵抗もなく、無意識的に変化してしまっている、というところが問題のように思える。 Read More →

人はいつか必ず死ぬ。この言葉は世界中どこでも通用する唯一の重い言葉と言っていいだろう。それは民族・国家・宗教・時代などと関係ない。全ての人間がこの地上に生まれてきた証でさえあるのだから。死自体は普遍だが、それを取り扱う方法や埋葬の仕方は地域・宗教・時代等によって様々に変化する。

私は旅行をした時、国の内外にかかわりなく、できたらその土地の墓地を見に行くことにしている。旅の途中で過去の記憶をたどったり、様々な夢想に取り憑かれたり、時にはまた自分の現在の姿を振り返ったりするのに適した場所だからである。墓地は、自然と人間がいかに深くつながっているかを考えさせてくれる場所でもある。また今現に、自分がやってきたその土地にかかわる、かなり昔からの生活習慣などがそこにはっきりと残っているからでもある。墓地に行くとやはり、自分よりも早く亡くなってしまった人々に対する思いが自然と胸に響いてくる。葬られた人の身分によって墓のある位置や大きさ、墓碑銘などの書き方、刻み方などが変わってくるのは、どこの土地にも共通しているように見える。墓地は歴史と社会のあり方を示している場所でもあるのだ。 Read More →

私の周りに、俳句を作る人が結構いる。毎週句会に出かける人、すでに自分の句集を発刊している方も多い。俳句は私たちに馴染みある文学なのだろう。外国にも俳句を作る人は多くいるという。俳句が世界で最も短い詩型だという一般論は、世界によく知られれいる事実である。俳句についての書物も、私たちが考えている以上にたくさん出版されている。自分で句作している人も多い。ただ私に気になるのは外国語で俳句が作られうるか、ということである。外国人が俳句として書いた作品を読むと、ただ短い句を三行に並べて書いたとしか思えないものから、苦心して英語・独語・仏語などの母音の数を五・七・五に合わせてあるものもあるが、どうしてか俳句にはなかなか近づかない。芭蕉、蕪村、一茶などの句を翻訳した文章を読んでも、翻訳者の苦心や努力は伝わってくるし、言いたい意味や状況は分かるのだが、俳句の感性はなかなか伝わってこないのである。日本語による俳句の特質を知っているので余計俳句らしさが感じられないのかも知れない。また、私が外国語に長けていないからかもしれないが、やはりそれだけではなさそうだ。やはり俳句は日本語でなければ成り立たないようにさえ思われてくる。

友人に短歌・俳句・詩をよくする方がいる。NHK の短歌や俳句によく紹介されたり多くの賞をとっている方である。彼の友人でドイツ語で俳句を作る方がおられ、その方の作品集が送られてきた。二つの言語が並列されて書かれている。ドイツ語で書かれた方の 文章を読んでも俳句らしい感じはしないのだが、友人が訳した日本語のほうをみると、不思議にも俳句らしくなっているのである。内容から見るとニュアンスには違いがるが、両方ともそれほど違ったことを言っているわけではない。にもかかわらず、ドイツ語の方はいわゆる「俳句」になっていないのである。友人の日本語ヘの翻訳が優れていることもあるのだが、ドイツ語の文章を読んでみても、どうしても俳句とは思えないのである。完璧なバイリンガルの方、つまり両方が同じ程度に高度な語学力と知識のある人が読んだら、両方とも俳句のように響くのだろうか。そこのところはよくわからない。外国語で書かれたものは「HAIKU」日本語のものは「俳句」と言っていいと思うが、うまくすれば「HAIKU=俳句」になる可能性もあるのかも知れない。
そのことについて一つ考えさせられ、感激さえする話をここに書いてみようと思う。内容は、NHKの2001年『ETV特集』で放映された「バルカン俳句紀行」からの受け売りだが、私が興味をもったところを中心に書くことにする。
2000年9月、旧ユーゴスラヴィアから独立したスロヴェニアの首都ルイブリアーナで、17カ国の俳人が集まって「世界俳句大会」が開かれた。戦乱の10年を越えて集まった旧ユーゴの人々からひときわ喝采をあび、その世話役を務めたのがウラディミール・デヴィで氏だった。氏は数学者で退官した大学教授である。1962年日本に留学し、東大で研修をしていた。数学の研究をやりながら、氏は日本の短詩「俳句」に興味を持ち、本格的に俳句について勉強し、自分でも俳句を作るようになっていった。氏は数学と俳句はその完結性という点で共通するところがある、と言う。本国に帰ってからも俳句の研究を続け、俳句をユーゴスラヴィアに広めた貢献者である。俳句についての著作も多い。
氏は「俳句は鳥のように国境も民族も越えて人々を結びつける」と言い、俳句の雜誌やパンフレットのようなものを発行し、精力的に俳句を広めようと努力したのである。ユーゴスラヴィア全土から、俳句が彼のところにたくさん寄せられるようになった。そのころから民族紛争が多発し、さらにそれは大国の参戦によって長期化し泥沼化の様相を呈してきた。何のために戦っているのかもわからなくなり、戦争は何時終わるとも分からず続いていた。それから様々な悲劇がデヴィデ氏のところに報告されるようになった。それでもなお、俳句を送ってくる人は絶えなかった。しかし、デヴィデ氏に一つの不安があった。7年前に氏を訪ねてきてから、毎回のようにすぐれた俳句を書き送ってきた一人の青年からのたよりが、ぱったりとこなくなったのである。その青年はダルマチア生まれ、クロアチアで少年時代を過ごし、そこで育ったセルヴィア人という複雑な経歴の持ち主だった。戦争が激しくなり、クロアチアからセルヴィア人は排除され追放され始めた。村内の隣近所でも容赦なかった。デヴィデ氏は彼のことが気になり、もしかしたらという不吉な予感さえ感ずるようになった。幸運なことにNHK取材班のおかげで、その青年は生存していることが判明し、デヴィデ氏と再開することが出来たのである。その青年の名前は、リュポミール・ドラコヴィッチさん。ドラコヴィッチさんは、内戦で村を追われ難民として各地を転々としながら、生まれ育った大地への思いを俳句にして書き続けていた。彼の俳句にはいつも、少年期を過ごしたアドリア海に連なるカルスト台地が登場するという。オリーヴの実る頃には、そこの農家で働き、それが終わればまた次の仕事を探す。友人を頼りにロンドンまでも行ったことがあるという。しかし、そこに定住する事なくすぐ帰国する。ドラコヴィッチさんの脳裏を離れず、決して忘れることができなかったのは、アドリア海とそのカルスト台地の風景だったのだ。放浪生活が長くなればなるほど、その思いは強くなっていった、という。「なぜ定職を持たないのですか」と聞かれると、「放浪がいいのです。『奥の細道』を書いたあの俳人芭蕉だって、旅に生き旅に死んでいったではありませんか、私は『ユーゴスラヴィアの細道』のような俳句紀行を書きたいのです』といった意味のことを答えたという。私はその時点で、ドラコヴィッチさんは「俳句」の精神をすでに身につけていると思った。ドラコヴィッチさんの俳句「この秋 私と雲に 薄い希望」という句があった。私はこの句を読んで涙が出てきそうだった。こんな俳句を作った人はおそらく日本人にはいないだろう、とさえ思った。ユーゴスラヴィアの内戦の中を放浪せざるを得なかったドラコヴィッチさんにしか書けない俳句だからだ。その理由は「薄い希望」という言葉にある。日本人が日本語で「希望」とい言葉に「薄い」という形容詞をつけることは、おそらくないからである。しかし「薄い希望」という言葉にドラコヴィッチさんの思いが宿り俳句として表現されているように思う。他の言葉ではドラコヴィッチさんの思いは伝わらないのだ。
ただここで私が感ずるのは、この句はおそらくデヴィデ氏の翻訳したものであろう、ということだ。
ドラコヴィッチさんの原文が何語で書かれていたかわからないが、「薄い希望」と訳したデヴィデ氏に俳句的なものが備わっていたとしか言いようがない。またもし、ドラコヴィッチさんが自分でこの句を日本語で書いたとしたら、彼はもう立派な日本の俳人になっていたと言っていいと思う。つまり日本人でない俳人が生まれていたのである。「この秋 私と雲に 薄い希望」という句が書ける日本人はいないからである。まさに俳句は国境を超えて世界に広がるのだ。もしそこに一つ条件がつくとすれば、俳句は日本語によってなせる技であるということであろう。その意味でも私は、この句は歴史に残る名句だと言っていい思う。もちろん俳句としての難はある。俳句を作っている人から見れば俳句になっていないと言うかもしれない。例えば強引に五・七・五に作り変えて「この秋や 私と雲に 薄い望」などとしたらこの句のもつ意味と質感が全く失われてしまう。何時終わるとも知れぬ母国の内戦の中、句を作りながら放浪したドラコヴィッチさんのこの作品は、俳句を越えてしまった俳句として残されていいと思う。あの状況の中で、「薄い希望」の他何も持てなかったに違いないし、「薄い希望」という日本語はドラコヴィッチさんの心境を私たちに伝えて余りある、と私は思う。
(俳句を学んでいる方のご意見をお聞きしたい、と願うものである。)

それにしても、ドラコヴィッチさんは「ユーゴスラヴィアの細道」を書いたのだろうか。今でも気になっている。

「みる、きく、よむ」は「日時計の丘」の当初からの標語であった。この三つの組み合わせで、文化を総合的に捉えようとしてきた。これまで決してうまくいったとは思っていないが、そのモットーを目指してきた。それなりに私たちの試みを理解してくださった方もおられ、有難いと思う。それを踏まえて、私たちはさらに進んでいかなければならない。先がはっきり見えているわけではないが、終わりがないことだけは確かのようだ。あとは何か余韻のようなものが残り続けてくれることを願うより外にない。 Read More →

子供の頃から「流浪の民」という曲を聞かされてきた気がする。姉がよく歌っていたからである。戦後すぐの頃のことである。それから「何処ゆくか、流浪の民、、」という最後の言葉だけが耳につてはなれなかった。今もそれは変わっていない。何か分からないが、田舎に住んでいた私たち子どもにとって「流浪の民」という言葉から見知らぬ異国の世界がどこか遠いところにあり、そこで何処へいくとも分からず、彷徨っている人達のことが気になったのである。「流浪の民」とはどんな人達だろうと。この曲がシューマン作曲の合唱曲であることを知ったのは、高校の時音楽部の人たちが音楽室で歌っていたし、それが当時は合唱曲の定番であった事を知ったのもその頃のことだ。その時も「何処ゆくか、流浪の民、、」という最後のところだけがやけに響いてきた記憶がある。この合唱曲は現在はあまり歌われなってしまったらしい。「流浪の民」とい言葉も忘れ去られてしまうのだろうか。

「流浪の民」とはジプシー(現代はジプシーという語は差別用語だということで「ロマ」と呼ぶことになったが、必ずしもジプシーという言葉と同意語ではない)のことであるが、合唱曲「流浪の民」は<Zigeunerleben>と言ってドイツの詩人エマヌエル・フォン・ガイベルの詩にシューマンが曲をつけたものである。「流浪の民」という題名は、訳者である石倉小三郎の訳語で、原語を直訳すれば「ジプシーの生活」ぐらいの意味である。昭和初期の頃から石倉訳で歌われてきたので、曲名として「流浪の民」に定着してしまったのである。石倉訳は文語調で響きはいいが、音樂の方に合わせたのか全くの意訳で、原語に忠実ではないとして批判されることもるが、歴史的な意味はあるとは言えるだろう。意訳であろうと時には誤訳であったとしても、言葉の響きがあり一旦流布されてしまうと、その言葉がずっと使われるようになってしまうことが往々にしてあるのである。「何処行くか、流浪の民,、、」などがその典型である。どこへ行くのか分からないが、旅に旅を重ねるジプシーの哀しみのようなものは伝わってくる。

スペインのノーベル賞作家J.R.ヒメネスの作品に石井崇が挿絵を描いた『プラテーロとわたし』という詩画集がある。詩画集と言っても、本は小さいが、版画はかなり大きく装丁が素晴らしい箱のなかに入っている。プラテーロとは作者が飼っていたロバの愛称で、この叙事詩、別名「アンダルシアのエレジー」はこのロバに語りかけるように書いた作品である。石井さんの版画は12枚あると言っていたが、2008年に出た作品集<TAKASHI ISHI>には16枚載っている。それぞれの箱に2枚の版画が入っていた。どれにするか迷ったが「やまももうり」という題名の絵があり、いかにもアンダルシアらしい家の並ぶ街の路地を二頭のロバが反対方向に人を乗せて歩いているところが描かれていたのが気に入ってこれを買った記憶がある。もう一枚は「アンジェラスの鐘」という題の絵だったことが最近わかった。これもなかなか雰囲気のある絵だ。もちろん原画ではなくリトグラフだが、色が実に素晴らしかった。宮崎県出身で大学病院の放射線科の医者に嫁いだ女子学生の結婚祝いに贈呈してしまって、それ以来その絵は家にないから思い出せなかったが、<TAKASHI ISHI>(求龍堂、2008)でそれが「アンジェラスの鐘」という題名であったことがわかったのである。その女性は結婚後二年ほどして24歳ほどで乳癌にかかり夭逝してしまった。今考えてもなんとも悲しい思い出である。誰の話も聞いてあげるような優しい学生だった。この詩画集も大学の研究室に売りに来た若い女性から買ったのである。その女性はある画廊に勤めていて、そこの画廊で私は、イタリアの作家マリノ・マリー二の作品も買った。それは一見馬の絵とはわからない抽象画だが気にいって応接間にずっと掛けてある。今でも他の絵に掛け替える気にはならない。その後二週間ほどしてその画廊に行ったが、その女性はもうそこにはいなかった。店員さんに聞いてもどこへ行ったかわからないという。今では顔も思い出せない。でも、家の寝室に入る壁にかけてあるアンダルシアの街を行くロバの絵を見ると、長いことずっと忘れていた奇妙な別れを味わった二人の女声の記憶が時に蘇ってくることがある。壁に掛けてある絵は毎日見ているようで、実は意識的に見ないと、人間の目には絵が実は見えていないのだ。奇妙なことである。石井さんには『おれたちがジプシーだったとき』(新潮社、1986)という詩文集もあり、スペインのアンダルシア地方で、ジプシーと一緒に暮らして、旅をしていた頃のことが綴られている。読むとジプシーの人々の奇妙な性格と暮らしぶりが、体験を通して伝わってくる。石井さんは今千葉の南房総の館山に住んでおられるとのことであるが、今でも年に何回かスペインのアンダルシアに出かけるという。そこで今でもジプシーの人々にお会いするのだろうか。

私がドイツの大学に初めて行った時、大学で紹介された下宿は大学から北に二十分ほど坂を上がった丘の上にあった。南ドイツは戦後フランス軍によって統治されていた。そのなごりで坂の上に大きなフランス軍の病院の建物ががあった。その裏側に私の下宿はあったのである。<Amselweg>という名前の通りだった。アムゼルというのは「つぐみ」という鳥の名前だから「つぐみ通り」とでも言えばいいのだろうか。家の後ろに黒っぽい鳥がよく何かを啄んでいた。下宿の主人が、それがアムゼルだと教えてくれたが、日本で言う「つぐみ」とはあまり似ていないように思った。私の下宿をさらに北西の方向に下って行くと自動車道にでる。そこにガソリンスタンドがあった。そこから西に向かって自動車が走るのだが、そのガソリンスタンドから次の集落まで5キロメートルほどあるが、両側とも全く家はなかった。森と野原だけだった。次の集落は、ベーベンハウゼンという有名なシトー派の修道院がそこにはある。新しい建物は建てられない環境保護地区の集落である。修道院を中心に、農家らしい家がいくつか並んでいた。確かに新しい家はなかった。
ある日その近くを散歩をしていた時、修道院の手前1キロぐらいのところの草原に、テントを張り生活している人々がいた。テントの前にはキャンピングカー2台と大きな乗用車が止まっていた。そこに野宿していたのがジプシーだったのである。私が初めてジプシーに出会った時である。そこでは何語を話すのかも分からず、ジプシーの人達と話すことはできなかったが、テントの横をゆっくりと歩いて、どんな生活をしているのかを覗こうと思ったがそれも出来ずに帰ってきた。あとで、ジプシーの人たちはあのような村境によくとどまっているという、昔入会地と呼ばれたような場所だそうである。それにしてもそこで見たジプシーの人たちは着ているものもからも、私が想像していた以上に貧しい暮らしのようには思えなかった。キャンピングカーも立派だし、止まっていた自動車は大型のベンツ車だった。ジプシーの子どもは学校にも行けず、大人でも識字率は低く、旅から旅へと渡り歩くまさに「流浪の民」という知識しかなかったので、その時の印象はそれと全く違うものだった。
その後、ハイデルベルクの近くの街で、ジプシーの青年に出会って話したことがある。自分は今高校に通っているし、大学にも行きたいようなことを言っていた。彼は流暢なドイツ語を話していた。別れ際に「俺達はもう旅はしない。定住するのだ」ときっぱり言ったのが今でも耳に残っている。人の話によると、以前はジプシーはパスポート無しで国境を超えることが出来、国籍のない人たちが大勢いたらしいが、今はどこかの国籍を持ちパスポートももっているという。同じジプシーでもいろいろあるらしい。ローマでは、ジプシーは物乞いか泥棒だから注意しなさい、と宿の主人に言われたことがある。そういえばコロッセウムの周りには、多くの物乞い、悪く言えば乞食がたむろしていた。黒い衣をまとった母親らしき女性が、子どもを抱きながら手を出して通行人に物乞いしている姿はどこの路地にも見られた。時には女の子二人で老人にまとわりつき、老人の反応の鈍さにつけこんで、カバンに手を入れているところを、私もこの目で見たこともある。凄まじかった。こうでもしないと生きていけないのだろうか。このような光景を見ると、ジプシーは貧しいという印象が強く残る。真新しいキャンピングカーに乗って旅するジプシーと大違いだと痛感した。

ヨーロッパの映画や小説にジプシーが出てくるものは多い。そういうものを見たり読んだりすると、ジプシーが差別されてきたことがよく分かる。ただ音樂に関して言えば、独特のものがあるようだ。多くの作曲家がジプシーの音樂を取り入れている。モーツアルト、ブラームスやリスト、ハンガリーの作曲家バルトーク。直接にはフランスの作曲家ビゼーの「歌劇ーカルメン」などなど。私の古くから親しんできたものにもある。中学生の頃からSPレコードで聞いたサラサーテの「チゴイネルワイゼン」などがその一つだ。チゴイナーはジプシーのドイツでの呼び名である。そのレコードはハイフェッツのヴァイオリン演奏だった。ハイフェッツの演奏するチゴイネルワイゼンは今でも名演奏、名盤であると聞く。確かに他の人の演奏もたくさん聞いたが、なぜかどこか見劣りがする。ハイフェッツの演奏はヴァイオリンのテクニックも音楽性も群を抜いていると、私も思う。
ジプシーは以前からブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、など、いわゆる東欧と呼ばれる地域にに多く住んでいたこともあってか、それらの国ではジプシーの音樂は普通に演奏されるらしい。ジプシー自身が奏でる音樂は、街のお祭りの日に街の広場でやっている。そのリズムと哀愁を帯びたメロディは独特で、心を打つ。私の好きな民族音楽である。スペイン南部のアンダルシア地方にも多くのジプシーが住んでおり、ヨーロッパ音樂の中で成立したジプシーの音樂と言われるフラメンコなどは、踊りとともに世界中で愛されている。またそれが、アルゼンチンやキューバに渡りさらに独特の進化をとげ、いわゆるラテン音楽となる。ジプシーの音樂ほど世界に広がって影響を与えた音樂は他には見つからない。もちろん、ジプシー音楽の持つリズムがそれぞれの国に伝えられてそれにそれぞれの地方色が加わったのだが、基本的には、放浪するジプシーの中に流れている、何とも言いがたい哀感が、われわれの心に共鳴してくるのではないだろうか。私はジプシー音楽から感ずるその哀感を「涙以前の哀しみ」とでも言うより外にないような気がする。
ジプシーの出自は、北インドから来たというのが現在歴史的に確認されているらしいが、西方浄土ではないが、楽園が西にあるという幻想を持って西へ西へと移動していったらしい。その長い歴史の中で、定住せず旅をする民族という伝説が生まれたようだ。どこへ行っても異民族呼ばわりされ、差別されてきたが、その過酷な歴史を生きてきた自負のようなものもあるに違いない。私が直接出会ったジプシーの人はあまり多くはないが、どの人もやさしく、人懐こい感じがあった。白人とは違った自意識を持っているようにも見えた。NHKのドキュメンタリー風の映像作品で、作詞家の阿木燿子がジプシーと暮らし旅をするというものがあったが、後に阿木はジプシーの人々は慇懃でやさしかったと、言っていたという。ジプシーの家族と阿木燿子が別れる場面で、その一行が村祭りに出かける旅先の村外れの、誰もいない道端で阿木一人だけ車から降り、とぼとぼと歩いて行くところは、脚色された場面だろうが、とても印象的だった。私の思い込みのためか、別れはジプシーにとって極く普通の日常的なことなのかも知れないとも思った。阿木耀子との別れの場面も、それほど無作為なものだった。阿木だけが涙を流していたようだった。それが逆に何とも言えぬ哀感を伝えていたのである。

ジプシーとの独特の別れを描いた映像作品がある。これもNHKで1983年に放映された、佐々木昭一郎制作・監督の『アンダルシアの虹』という作品である。いわゆる「川シリーズ」(*)と呼ばれる三部作の一つだが、ピアノ調律をしながら旅する女性、栄子(中尾幸世)がジプシーの村の人々とのさまざまな交流を描き、最後にそれぞれの人々とそれぞれの別れを経験するという内容だが、そこにも、ジプシーは「旅に出る」そこには「別れがある」というジプシー神話が生きている。その哀歓を佐々木はうまく活かしている。人との別れの先に死というものがある、というのが佐々木のテーマだが、それが親しんだ人々との別れに隠れていて表には出ず、そこに出てくる人々ではなく、別れの場面でそれを見る人にそう感じさせるように演出しているところは、佐々木作品の真髄だろう。他の佐々木作品すべてに、その同じテーマが流れており、川の流れがそれを象徴しているのだが、それがうまく伝わってくるのは、映像の美しさとそこに出てくる人々の暖かさややさしさがそのテーマをうまく包んでいるからである。佐々木作品の魅力である。映像の間に出てくる、人々の顔を描く中尾の鉛筆のスケッチがその哀歓をさり気なく、しかも深刻ににじませて映像作品に深みを与えている。『アンダルシアの虹』では、栄子の自転車の修理を約束したジプシーの少年が出来上がった自転車でやってきて、この村を去る栄子と最後に別れる場面はひときわ少年の哀しみが伝わってきて感動を与える。やはり「ジプシー」という人々自身が経験したように語られる「旅と別れ」ということが重みを持っているのである。ジプシーの人々にとって「旅と別れ」は私たちの経験と全く異なった意味を持っているのかもしれないが、やはり私たち日本人には、ジプシーは「何処行くか、流浪の民、、、」というイメージが染み付いてしまっているのだ。

私も近いうちにスペインアンダルシア地方に行き、ロマの人たちの奏でる音樂をその場で聞いてみたい。

(*)佐々木昭一郎:「川」三部作
『川の流れはヴァイオリンの音』(イタリア、ポー川、1981)
『アンダルシアの虹』(スペイン南部、グアダルキビール川、1983)
『春・音の光』(スロヴァキア、ドナウ川、1984)

誰にでも物を収集する癖があるという。程度問題でもあるが、物を集めることは何故か楽しいことらしい。収集癖は人間だけでなく動物にも観察されるという。人間の場合それが過剰になってしまうところが動物と違うところだろう。
最近見ることはほとんどなくなってきたが、「なんでも鑑定団』というテレビ番組が長く続いている。収集に関心のある人が多いからだろう。それに収集したものが本物か、偽物かを専門家の方々が判定してくださるので、自分が鑑定を依頼した収集家が持参したもの対する判定を聞いて取る悲喜こもごもの態度が、家伝として大切にしていたものが全くの偽者だったり、ふと偶然に手に入れて忘れていたものが、重文に近い希少価値があるものだったりして、判定の結果を聞いた収集家の人間模様が垣間見られてこれもこの番組の魅力だろう。しかし、この番組に批判的な人もいる。私の知っている骨董屋さんは、あの番組のお陰で価格が吊り上げられたり、過小評価されたりする影響が出てきて困る、というのだ。骨董そのものには、私はあまり興味が無いが、気に入ったものを自分の手もおとにおきたいという願望はある。 Read More →