言葉と物、思考と感性は密接に結びついている。一方が失われば他方もそれに続いて消えていく。切り離せないのだ。例えば、梅雨に降る雨は「しとしと」降る。現今の雨は豪雨に近く、局所的に降る。庭石にしとしとと長く降ることはなくなってきた。それに連れて「しとしとと降る雨」という表現も薄れていく。それに歴史的に長く語られてきた言葉にはそれなりの品格が備わっている。最近言葉がその品格を失い、使うのもためらうような言葉が流布するようになってきている。私たちの意識が社会の動向に翻弄されてしまっているのだ。 Read More →

NHKの放送に以前から「小さな旅」という番組があり、名前を変えながらも今も続いている。30分にも満たない短い番組だが機会があるとよく見ている。最近、TVが実に内容のない娯楽番組、あるいは娯楽にさえならないトークショウのような形式のものばかりで、.興味が持てないものが多く、全く面白くもない。この感想は私だけでなく多くの友人や、近所の方々の感想でもある。TVの時代は終わったという声さえ聞かれるようになってきた。TVを見るのは若い人は少なく、年寄りの見るものに成り下がったようにさえ見える。そんな中で「小さな旅」は昭和58年に始まって以来その雰囲気を今でも伝えようとしているところがあり、好感が持てる番組である。
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私が小学校6年生の時だったと思う。私の記憶はいつも不確かだが、夏休みが終わったころだった。先生が、ある一人の生徒を皆の前で紹介した。女の子だった。先生は、おそらく、私たち生徒に名前を言ったはずだが、その子の名前は全く記憶にない。ただその子が小さな赤ちゃんを背負っていたことは、鮮明に覚えている。いわゆる「お子守さん」だったのである。その子はいつも教室の後ろ、しかも後ろのガラスがはめてある引き戸の前に立っていた。その引き戸を開けると廊下になる。学習机も椅子もあったはずだが、その子はいつも立っていた記憶しかない。座っているところを見たことがないのである。おそらく身体をいつも動かし、子供をあやしていたのだろうと思う。その子が背負っていた子供が泣いたという記憶もない。泣きかけたら教室から廊下に出ていったのだろう。そういう、そのような約束だったのかも知れない。 Read More →

現今、昔からある、いわゆるカメラでなくても、携帯でも、スマホでもいつでも、どこでも誰でも写真が撮れるようになった。デジタル化現象があらゆる部門に浸透し、写真もデジタル化されて気軽に誰でも撮れるようになって、その意味が変化したように思う。それ以上に、それに後になってからでも修正したり合成したりすることが自由にできるようになってしまったことが、問題のように思える。 Read More →

「逝きし世の面影」とは、渡辺京二氏による著作の書名である。最近の名著と言ってもいいと思う。私はこの書物を読んで様々なことを考えさせられたが、特に現今の日本の世相の変化を、またその意味を深く考えさせられた。この書物に啓発されたのだが、実際毎日の生活の中でも「逝きし世」「過ぎ去った過去」は時間とともに薄れていくものではなく、私たちの現在の意識を規定する「現実感」に由来しているのだという逆説を考えなければならないと強く意識させられたのである。最近にない読書経験だった。ここで何が衝撃的だったか、そこから何を考えなければならないかなど、学んだことを記しておこうと思う。 Read More →

昨今、雪が少なくなったと言う。全国では九州は南の国という観念があるが、昔は結構雪が降ったらしい。「このあたりも以前は雪がよけい積もりましたよ」と近所の農家のお年寄りが言っていた。私はここに来て30年ほどになるが、雪が10センチ以上積もったことはない。昨日降ったが積雪という感じはなく、坂道を自動車が朝から走っていた。道路は凍結しなかったのだろう。 Read More →

「忘れる」という行為は不思議な行為である。忘れることを行為であるというのには異論もあるだろうが、ここでは他に言葉が出てこないからそう呼ばせていただく。「事態」といったほうがいいかも知れない。まず忘れるというときは、必ずや気が付くということと関連しているということである。何々を忘れたというときは忘れてはいない、気がついた時なのである。つまり、気がついて初めて忘れたということが意味を持つという奇妙な関係にあるのである。そういう意味では、前に書いた「思い出すこと」と対になっていることは誰でも気がつくことではあろう。ただ、思い出すためには、思い出そうと意識的に努力する必要があるのに対して、忘れるのは自然に忘れてしまっていることが多い、ということは言えそうである。忘れるほうが思い出すより始原的で自然なことなのかもしれない。上のものが下に落ちるほうが、下のものが上に登ってくるより自然だろうからである。 Read More →

「幼年時代のもっとも古い記憶がよみがえるときは、いつも雪景色とともに浮かんでくる」
(マネス・シェルパー『すべて過ぎ去りしこと、、、』)
「桜が散って、このような葉桜のころになれば、私はきっと思いだします」
(太宰治『葉桜と魔笛』)
「後の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない」
(伊藤左千夫『野菊の墓』)
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何かを集めることは人間に本能的に備わっているものらしい。何かを収集するという行為は何かを反復する行為と似ているところがある。子どもの遊びを見ていると、どの遊びにも必ず繰り返しの要素が含まれている。最近の子供の遊びや遊び道具を見ていると、一人遊びの要素が強いように思う。兄弟が少ないこともその原因の一つだろうが、子どもの遊びの基本はやはり繰り返し同じ行為を反復することにあり、その繰り返される行為とその結果にある小さな差異に興味と喜びを感じていることは間違いない。最近の遊び道具は、子供の心理、それに親の心理をも考えて興味深く遊べるように工夫してある。子供の遊びに対する衝動は繰り返すという行為にあり、遊びの内容にあるのではない。極論すれば、繰り返すことが出来れば、内容はなんでもいいのである。内容は単純であればあるほどいいということになる。その典型的な遊びが、昔からある「かくれんぼ」「石蹴り」「おしくらまんじゅう」などがある。これらの遊びはいかにも単純である。反復が難しい複雑なものは繰り返しが難しいと、逆に飽きてしまうのである。その点から言うと、最近の子供のおもちゃは複雑すぎて、到底長続きはせず、半年もすれば飽きられてしまうだろう。けん玉や竹馬などの遊びもあるが、それほど現代に普及するとは思えない。 Read More →

「古典」という言葉はよく使われる言葉だが、実はそれ自体としては意味を持たないあいまいな言葉なのである。ある限定した領域、あるいは地域、つまり、「・・・の古典」とか「・・・における古典」とかいう何らかの限定がついて初めて意味を持ってくる言葉だからである。「源氏物語は日本文学における古典である」というような文脈で使われるのである。しかし普通私たちは、あまり厳密にではなく、漠然と「古典」ないしは「古典的」という言葉を使っている。「現代ではなく、時間的に過去のもので、その分野では規範的で優れたもの」というぐらいの意味で使っているのである。 Read More →