昨日節分だった。豆をまいた。掛け声を出してみたら「鬼は外、福は内」が先なのか、あるいはその逆なのか分からなくなった。調べてみると両方あるらしい。どちらでもいいのかなと思って、両方言ってみたら、どちらもそれなりによく響いた。特別なことにこだわらない限り、何事も二つあり、それが現実であり、普通のことなのかもしれないと思った。どちらでもいいのである。悪く言えば「優柔不断」になったとも言えるが、若い頃よく使っていた「絶対に・・・」という言葉使いに違和感が出てきたのである。何事に関しても絶対的より相対的な言葉のほうが現実に近く、使っていて気が楽になるのである。「どことなく」とか「なんとなく」と言った言葉もよく使うが、それは「それほどの意味もなく」という曖昧な表現で、それ故に親しみ深く感ぜられる言い方である。そのような何かに直接こだわらない言葉が使いやすくなってきた。歳を取ってきたからだろうか。「おかげさまで」と言う言葉は年寄りの言い方で、子どもが使う言葉ではないのも同じ理由からだろう。「どこからともなく」匂ってくる梅が香が路地に漂ってくる。まさに梅の季節だ。
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「道」も「路」も訓読みではどちらも「みち」と読み、音読みでは「どう」と「ろ」となり、異なっている。二つ合わせると「道路」(どうろ)となり一般的になるが、それは歴史的には新しい使い方であるようだ。「路」は時には「じ」とも読む。特に前に固有名詞が来ると「じ」と読むようだ。「近江路」「箱根路」「甲斐路」と言った具合に読むのである。そもそも道と路はどのように異なっているのだろうか。私たちはなんとなく理解していると思っているが、その使い方はさまざまである。一応「道」は大きく、公の意味を持ち、「路」の方は比較的小さく、私的な感じがする、この感じは間違ってはいないと思うが、文脈によって様々な変化が加担してくる。それに「径」や「途」も「みち」と読み、さらに複雑にややこしくなる。 Read More →

裏を見せ表を見せて散る紅葉 良寛

どこの言葉にも、前後、左右、上下、内外、遠近、長短、あるいは善悪、美醜、貧富、聖俗、のように相反する事態が対になった言葉がよく使われる。数えればきりがないほどある。それらの言葉は確かによく対の形で表現され、ことさら考えることもなく無意識的によく使うが、その関係にはそれぞれ微妙なところがある。その中に「表裏」という対の言葉があるが、私はこの「表裏」という言葉、あるいはその言葉が指し示す事態に特殊に拘ってきたような気がする。そのきっかけになったのが、先に挙げた良寛の辞世の句である。
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最近、運ー不運とか偶然ー必然とかいう言葉がとても気になるようになった。自分は何によって動かされているのか、自分の意志でやっていることも、実は何かに操られているのではないか、といった古い学生時代からの疑問がまた浮上してきたのである。しかもこれまで生きてきた長い過去を振り返るときに、またその疑問を強く感ずるようになったのである。 Read More →

言葉と物、思考と感性は密接に結びついている。一方が失われば他方もそれに続いて消えていく。切り離せないのだ。例えば、梅雨に降る雨は「しとしと」降る。現今の雨は豪雨に近く、局所的に降る。庭石にしとしとと長く降ることはなくなってきた。それに連れて「しとしとと降る雨」という表現も薄れていく。それに歴史的に長く語られてきた言葉にはそれなりの品格が備わっている。最近言葉がその品格を失い、使うのもためらうような言葉が流布するようになってきている。私たちの意識が社会の動向に翻弄されてしまっているのだ。 Read More →

NHKの放送に以前から「小さな旅」という番組があり、名前を変えながらも今も続いている。30分にも満たない短い番組だが機会があるとよく見ている。最近、TVが実に内容のない娯楽番組、あるいは娯楽にさえならないトークショウのような形式のものばかりで、.興味が持てないものが多く、全く面白くもない。この感想は私だけでなく多くの友人や、近所の方々の感想でもある。TVの時代は終わったという声さえ聞かれるようになってきた。TVを見るのは若い人は少なく、年寄りの見るものに成り下がったようにさえ見える。そんな中で「小さな旅」は昭和58年に始まって以来その雰囲気を今でも伝えようとしているところがあり、好感が持てる番組である。
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私が小学校6年生の時だったと思う。私の記憶はいつも不確かだが、夏休みが終わったころだった。先生が、ある一人の生徒を皆の前で紹介した。女の子だった。先生は、おそらく、私たち生徒に名前を言ったはずだが、その子の名前は全く記憶にない。ただその子が小さな赤ちゃんを背負っていたことは、鮮明に覚えている。いわゆる「お子守さん」だったのである。その子はいつも教室の後ろ、しかも後ろのガラスがはめてある引き戸の前に立っていた。その引き戸を開けると廊下になる。学習机も椅子もあったはずだが、その子はいつも立っていた記憶しかない。座っているところを見たことがないのである。おそらく身体をいつも動かし、子供をあやしていたのだろうと思う。その子が背負っていた子供が泣いたという記憶もない。泣きかけたら教室から廊下に出ていったのだろう。そういう、そのような約束だったのかも知れない。 Read More →

現今、昔からある、いわゆるカメラでなくても、携帯でも、スマホでもいつでも、どこでも誰でも写真が撮れるようになった。デジタル化現象があらゆる部門に浸透し、写真もデジタル化されて気軽に誰でも撮れるようになって、その意味が変化したように思う。それ以上に、それに後になってからでも修正したり合成したりすることが自由にできるようになってしまったことが、問題のように思える。 Read More →

「逝きし世の面影」とは、渡辺京二氏による著作の書名である。最近の名著と言ってもいいと思う。私はこの書物を読んで様々なことを考えさせられたが、特に現今の日本の世相の変化を、またその意味を深く考えさせられた。この書物に啓発されたのだが、実際毎日の生活の中でも「逝きし世」「過ぎ去った過去」は時間とともに薄れていくものではなく、私たちの現在の意識を規定する「現実感」に由来しているのだという逆説を考えなければならないと強く意識させられたのである。最近にない読書経験だった。ここで何が衝撃的だったか、そこから何を考えなければならないかなど、学んだことを記しておこうと思う。 Read More →