「みる きく よむ」は「日時計の丘」のモットーである。この三つは、ここで行われる行事に、多かれ少なかれ必ずかかわってくる行為だからである。そもそも、これらの行為は人間が「文化」なるものを作ってきた基本にある必要条件であった、と言ってもいい。しかし、この三つはどちらかと言うと、文化の「受容」にかかわっている行為である。「日時計の丘」が意図する行事の場所が主にこの「みる きく よむ」を中心に展開するという意味では十分であろうが、文化一般を考えると、文化を創造する能動的な面が欠けている。たとえば「書く、撮る、作る」などである。「日時計の丘」はその直接的作業場には適していないが、今後は、この「創造する」方向も考慮してイヴェントやプログラムの構成を考えていきたい。となると、いわゆる「編集」という作業が重要な位置を占めることになる。創作と受容、表現と享受の関係を相互に交差させるのが「編集」という作業だからである。そもそも「文化」は、それ自体で自立することなはく、時間・空間、運動・静止などの相互関係として成立するものであり、二つ以上の要素がかかわり合う、いわゆる「境界領域」を必要とするのである。「編集」作業が重要なのもそこにある。そういった意味で「日時計の丘」は、編集作業による境界領域でありたいと願っている。
クロード・レヴィ=ストロースの最晩年の書物に同名の『みる きく よむ』(竹内信夫訳 みすず書房)があるが、この書物は「日時計の丘」が目指す方向をよく示してくれている、と思う。
手に取っていただきたい書物である。

古本を好きな人は多いと思う。私もその一人だ。
古本屋街は学生時代から親しんで来た場所である。神田神保町、早稲田、渋谷道玄坂、中央線沿線の高円寺、荻窪、西荻窪、私の住んでいた吉祥寺などなど。そのころは、山手線、小田急線、京王線、西武新宿線などの駅を降りたところの近くにも必ず古本屋があった。旅行先の町でも可能な限り古本屋を回った。かなり小さな町でも、それなりの古本屋がひっそりと本を並べていたものだ。その中に、時には探していた本が偶然に見つかることがある。そんな時は無上な喜びを感じたものだ。この本は山口市の古本屋で40年近く前に買ったものだ、などとそのころのこと、また時の古本屋のおじさんの顔さえ思い出すことがある。
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現代社会における「高齢化と少子化」問題が論じられるようになって、すでに久しい。社会の構造的変化は、中小都市においては繁華街の衰退、いわゆるシャッター通りの拡大を、また農漁村には人口の過疎化現象をもたらした。人と物の流れが新幹線の停車する大都市の駅前およびそれに連なる中心部と、国道などの大きな自動車道路の両側に吸い込まれた。その結果旧街道とJR在来線が急激に衰退し、人の流れが一転した。乗客の減少した駅は次々に無人駅となり、廃駅に追い込まれたところも少なくない。バス路線がそれに代わろうとしたが、過疎化した村にはバスも行かなくなった。限界集落の誕生である。村民の高齢化と交通手段の遮断がそれを加速させている。
 しかし、私にはそういった現象が必ずしも悪いとは思えない。経済的にではなく、倫理的にである。廃村や廃駅を見ていると逆接的にそう思えてくる。許せないのは、「原発」で潤う海岸の市町村や「世界遺産」の名のもとに資本主義的観光業に侵されて、あたかも発展しているように見える歴史遺産や自然遺産を抱える市町村の在り方である。限界集落や無人駅は「負の遺産」などでは決してなく、過去と未来を連結する、人間の「想像力と創造力」の原点になりうる、現代におけるもっとも重要な場所なのではないのか。消えてゆくものほど美しく、その滅びゆく姿は本当の生きる力をわれわれに与えてくれるはずである。「滅びるものには力を貸す」(ニーチェ)ことだけが、真の「再生」を可能にする絶対条件なのではないか。希望はまだそこに残されている。限界集落や無人駅はそのアレゴリーと言ってもいいように思える。
技術によってではなく、自然に滅びゆくものの歴史的意味を考えていきたい。

かれこれ五十年ほどになるだろうか。そのころ学生だった私は、奥日光の杉林の中を歩いていた。その時、どこからかモーツァルトのイ短調ピアノソナタの第三楽章が聞こえてきた。それがなんとも快く周りの雰囲気にふさわしく響いていた。こんな山の中なのになぜ、という疑問がわいてきたが、やはりはっきりと聞こえていた。不思議だった。今でも鮮明に覚えている経験の一つだ。
 今度、画家である大穂さんが「おくのほそ道」を暗誦していて、それを朗誦してくださることを聞いたとき、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の中の曲を、特に穏やかな曲とその曲想をそこに配置したら、新たな連結の可能性が発見できるかも知れない、という思いにかられた。確かにその二つの結合は、恣意的で単なる趣味の域を出ないし、何の必然性もないように見えるが、その結合は、聞く者に新たな驚きと不可思議な感動を与えるはずだという、確信はある。菅谷さんの演奏もその結合にうまく加担してくれている。
普遍的なものは、その普遍性ゆえに必然的に結合し、連結し、さらなる可能性を広げてくれるだろうからである。そもそも「世界生成」の表現は、結合の新たな可能性によるのだ。
五十年前の記憶の残滓が、時間を経て、その構造をここに再生してくれたように思えてならない。

「時代」を読むのは難しい。さまざまな事象が交差し、ある出来事の事実性を確証するのが難しいからである。しかし、生活を一変さようにせるような大事件は起こるものだ。今回のの東日本大震災と福島原発事故はそのような事件に相当する。ところが、そのような大事件は社会の仕組みさえ断絶させるが、他方、実の世相(=生活の諸相)は変わらずに連続する面をもっている。そこにこそ、人間の喜びや悲しみの原点があり、その表現だからである。

これから「大正時代」という時代を一つの事例として、歴史における「断絶と連続」について考えていきたい。今回は特に、政治・経済からというよりは、生活・世相という観点から、それを再現する形で考えてみたい。次の3回に分けて、当時の音楽の歌唱と演奏、文学(小説や詩歌)の朗読、絵画や写真による映像で綴ってみたい。
(1)「大正ロマンの世界」
(2)「大正デモクラシーの明暗」
(3)「大正から昭和へ」

3月11日に起こった「東日本大震災」の次の日、福島原発の事故が報道されたとき、事故の内容はまだほとんどわからなかったが、皆へのメールに「ナージャの村」のようにならないことを願うばかりです、と書きました。「ナージャの村」はチェルノブイリの原発事故で、村民が強制避難させられた地域にありました。その村を、写真家、本橋成一が撮ったすばらしい写真集があります。映画化もされ、世界の多くの人々に感激を与え、話題になりました。そこには、その村の住民の中に、強制的避難勧告があったにもかかわらず、そこで生まれ、これまで生きてきたこの場所で死にたいと嘆願し、その村を離れなかった村民がおり、その人々の生活とそれを囲む自然が淡々と描かれています。その村に育ったニコライという村民の心境と嘆きの言葉が心を打ちます。

 人々はパンを食べる。
 わたしたちは放射能を食べる
 国はとおくに去っていった。
 私たちはこの地に、
 踏みとどまる。

 もしロシアを捨て天国に生きよ、
 といわれたら、
 わたしはいう、
 天国はいらない、
 故郷を与えよと。
  ニコライ
(本橋成一『ナージャの村』より)

国家には、人間の自己保存と自己責任、つまり「人間存在」対して法的な強制力はないし、あってはならない。倫理は法に先行する。
福島原発近郊の町村にあっても、ニコライのような住民は必ずやいるであろう。そのような人間の尊厳と自由を奪ってはならないと、強く思う。

ホームページの読者から、イヴェント情報の日時、および内容をもう少し告知してほしいという要望をいただきました。書面に制限がありますが、なるべく多くの情報提供を心がけたいと思います。

「対の効果」とは聞きなれない言葉だと思います。ここで言う「対の効果」とは、ある芸術家の作品、ここでは絵画を主として考えていますが、一人の作家の作品を2点「対」にして同時に展示すると、さまざまな効果が現れるといった意味です。一人の作家の異なった作品(作品の内容、表現手段、制作年代などが異なる)2点を同時に比較して見ると、その作家の資質や目指しているものが、一点だけを見るときに比べて、驚くほどよく見えてきます。絵画を見る新たな面白さが発見できると思います。そこで、「対」になっていることの意味を意識的に見ることが大切です。この「対の効果」という事実は絵画だけではなく、あらゆる表現芸術に妥当するように思われます。そこを見ていただきたいと考え、この展覧会を企画いたしました。

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管理人

現代私たちは、大きなものを求め、速度が速いことに脅迫されています。それゆえ、小さきもの存在を忘れ、ゆっくりと流れる時間に耐えられなくなっています。私はこの頃、花屋に並ぶ豪華で色鮮やかな花々が、どこか造花のように見えて仕方がありません。結婚式や音楽会などの華やかな雰囲気には、そういった大きく艶やかな花もいいと思いますが、名もない雑草や野草の花も、小さくはあっても形といい色といい、いとおしい美しさがあると強く感じています。造花ではなく、造化の美しさです。
絵画にも同じことが言えるように思います。今回は「小さなものたち」への愛着、「ゆっくり流れる時間」の意味を考えていただきたく、この展示会を企画いたしました。