まえがき

日時計は古代エジプトから存在する、太陽の運行と地球上で自分が今立っている場所との結節点、つまり時刻を計る技術です。水晶などの透明な石が、ある時刻に太陽の光を受けて鋭く光る時があります。その時刻をここでは「結晶時刻」と呼んでいます。現在、時刻は当の国が決めた標準時を基に決めています。しかし、自然の時刻はその場所によって、それぞれその場所における太陽との関係からその都度決定されているのであり、同じ国内での場所によっても自然にずれているのです。私たちは、自国の標準時に生活を合わせながらも、自分が今立っている場所が指し示す「結晶時刻」を大切にしていきたいと思っています。今、西の空に出ている夕焼けが、私たちの夕焼けなのです。私たちの夕暮れ。また来るだろう私たちの朝、その度ごとの切断と連続、そう、まさにそれが「生成の無垢」、存在の「結晶時刻」。私たちのブログもこの「結晶時刻」から出発し、「結晶時刻」の経験的結果を証すべく発信したいと考えております。

現代世界は得体のしれない閉塞感に襲われています。それは、それぞれの国家のあり方を超え、まさにグローバル化した世界に共通に蔓延し始め、まだ人類が経験したことのない「新たな病」として実感されつつあります。その病に対処する方法はあるのか。世界の破滅や奇跡という救済しかもはや残されていないといったニヒリズムではなく、人間に残された可能性の破片をどうにか収集して、世界の新たな関係を築いていくにはどのような方法が残されているのか、その可能性を考え、実践していかなければならない。これから、現代私たちが立っている時代状況を、ニーチェが言うように「過去を現代からみるのではなく、現代を過去からみる」というパーステクティヴを応用して、これまでの人間の歴史をあらためて認識しなすことはできないか、と考えております。それがとりもなおさず、「日時計の丘」の活動の指針にもなっています。人間はこれまで何を見、何を聞き、何を読み、何を経験してきたかを再吟味し、それをこれから未来への場所を導く<アリアドネーの糸>として、現代陥ってしまっている悪循環という迷宮から抜け出す方法を模索していきたい、と考えています。

私ども「日時計の丘」では、人間存在の基本的である三要素「みる、きく、よむ」を交差させ、編集してさまざまな企画を考え、皆様に提供したいと考えています。もちろん実際に行われる企画は、それぞれ独立していますが、その基底にかの三要素が内的に関係するように考えられています。しかも、その関係は「自然性と祝祭性」という古代から現代にまで引き継がれるべき要素で結合され、「日時計の丘」は、その関係を現代的に実現する「可能なる場所」と位置づけています。

私どもの企画でもう一つ大切なのは、ここに集まる皆様のすべてがその催しに、何らかの形で参加することを目指している、ということです。PKOや各種のボランティア活動も参加型の行動ですが、それらと違うところは、そのような意識的な活動というよりは、その企画や催しに参加すること自体が自然に社会的な意味をもつようなものにしたいと考えているのです。現代社会は、さまざまな形で世界のグローバル化が進み、それに倣うかたちで、政治・経済・文化の質が均質化し、科学技術の進展は自然・人間・物自体からそれらがもつ「存在性=リアル性」を剥奪し、実態のない空虚な世界へ参入し始めています。これまでの人間の歴史が終焉しつつあるのです。つまり、このような時代になってしまった限り、旧来の社会への反抗や改革の方法は通用しなくなりました。しかし、現代社会の人間への抑圧や排除は以前より巧妙になり、不透明な形で強化されています。意識されることなしに、人間存在の根拠を完全に奪ってしまう態勢に入ったと言っても過言ではないでしょう。原理主義や新自由主義が目指すのはその方向です。だからこそここで、わたしたちは「パルチザン」的「ゲリラ」的方法を復活させる必要があります。というのも、これまでの原理主義や国家権力に対して直接的に暴力的な攻撃的方法(テロ行為やサイヴァー攻撃)はもとより、いわゆる民主的多数決の論理でも成功しません。すでに。人間存在の歴史が終焉し、新たな段階に入ったのですから、これまでの方法では人間を直接救うことはできません。それが武力であれ、経済力であれ、力の論理、つまり戦争の論理も、いわゆる「個人の自由」を基礎にした「近代民主主義」も方法的意味を失ってしまったのです。しかしそれに代わる新たな論理や方法はまだ見えてこず、そこへの途上にあるとしか言いようがありません。焦り声、あるいは呟きとしか聞こえない、分節化されない、意味不明な動物の呻き声のような音声だけが、ハイテク技術によって拡大され巷に溢れています。濁音も清音も区別がつきません。誤解の恐れはないと思いますが、私どもは、雑音、騒音、不協和音を排除しているわけではありません。そうではなく逆に、社会が発するそのような不自然な音を、外部からことごとく消去して、純粋な清音だけが聞こえる空間を虚構することに邁進していることが問題なのです。たとえば「無菌室」とか「無重力空間」とかいうものです。そのような「純粋さ」の追求によって、逆に世界が乏しくなってしまったのです。そのような「乏しき時代」にあって、まだ人間に何らかの可能性が残されているのでしょうか。そのような歴史の観点から私たちは出発しています。

日時計の丘の活動も「来るべきもの」の途上にあり未来を志向するのですが、その方法は逆に一昔前の方法が有効なのではないかと考えています。その方法は、誤解を恐れずあえて比喩的言えば、暫定的にパルチザン的であり、ゲリラ的です。ここで言うパルチザン、ゲリラとは、社会のもつ矛盾や不条理に向かってその背理を追求し暴いてはいきますが、その運動は決して社会の存在そのものに対して全面的な否定を含んでいません。原理的な強制ではなく、社会的正義の分有と共有をめざして、穏やかに振舞いながら、最終的には既成の組織や方法に頼ることなく、市民のための静かな「永久革命」の端緒を開き、正門から入る人も裏口から入る人も、同じように「歓待」される場所、おおげさに言えば人々が集まることのできる「祝祭の場所」を提供することが目的です。

おたく的「無関心」もニートのいう「価値の中性化」もすでに過去のものになりつつあります。現代の合言葉は「自働機械」とでもいうべきでしょうか。エントロピーの最大値、全ての差異が消滅した世界、運動がすべて静止してしまった水平面、死滅することさえないニルヴァーナとしての「自働機械」。ここまで来てしまったのかという感さえあります。ただ、差異をねつ造し、ヴァーチャルナな運動による錯覚である差異を意図的に生産しようとする資本制だけが、現代活発に活動しているように見えます。すべて死滅するよりましなのではないか、と。然り。このように、おそらく歴史の最終段階にきてしまった世界に対して、私たちにできることは、力による「抵抗」ではなく自然に生成してくる「復活」です。「復活」などというといかにも保守的な響きに聞こえますが、真の「復活」は古いものが戻ってくること、昔の状態に戻すことではありません。また「復活」は個別な宗教とは無関係に存在します。復活は歴史の中での「救済=秘密の約束」(ベンヤミン)であり、そもそも「未来=来るべきもの」を意味します。もちろんそれは全く新たなるものの創作を意味しません。かって「あった」ことに新たな意味と存在性を与えることです。言葉でそれを呼び戻すことです。それが「復活」ということです。さらに重要なことは、復活は意識的な活動として意図できるものではありません。復活は「完成」ではなくあくまで「生成」です。私たちの言葉によれば、その都度の「結晶時刻」の連続としての生成です。その意味では、復活は「結晶時刻」のその都度の再来と言ってもいい。「あたかも祭りの日に」(ヘルダーリン)のごとく自然と祝祭の共演を願い、その復活を祝いたいものです。

「芸術」という部門に限定しても、これまでの芸術運動はすべて無効になりました。人間の歴史が終焉したわけですから。これまで私たちは、19世紀から21世紀にかけての芸術運動、印象派、キュービズム、野獣派、アヴァンギャルド、抽象芸術などの芸術運動に加担してきました。それはそれなりの歴史的意味はありました。しかし、現代はほとんどその模倣や変装さえ出来なくなり、意味不明な「アート」という言葉に翻弄され、守るべき自己表現と社会批判の任務を捨て去ってしまいました。とくに現代の「モダンアート」とかいう独りよがりの芸術活動によって生産される作品の多くは、無意味な活動の結果でしかなく、まったくの浪費にすぎません。現代の多くの芸術家は「アーティスト」とかいう都合のいい名前に隠れ、いかに高慢な態度で、社会の善良な人々を欺いているか、あらためて反省すべきでしょう。社会には「職人は必要だが芸術家は要らない」と言ったプラトンの言葉をまじめに受け止め、その真意を反芻する必要がありそうです。その言葉は単純な「詩人=芸術の追放」の言葉なのではなく、根本的な社会批判の言葉でもあるからです。

以上のような反省から「日時計の丘」の活動は、社会へ直接アンガージュする活動でもなく、個人の自由意思に基づくように見える福祉や奉仕にかかわる単なるボランティア活動でもなく、人間が歴史的に担ってきた「自然と祝祭」を基盤にした、高邁でありながら静かな休息を目指す活動にしたいと、考えております。技術が自然に勝てないことは自明ですが、絶対的な自然そのものも存在しません。形容矛盾です。自然と技術は相互関係にあります。そのことからして、平凡な生活の中でこそ芸術は育つのであって、特殊で奇抜なものではありません。教育も同じです。私たち現代人はそのへんのところを誤解してしまっています。行き過ぎて誤った自由・平等・権利に縛られた「現代」のありかたへの批判と反省から出発したく、決意しました。シェクスピアの悲劇『リア王』の最後に近い、第五幕第二場に「Ripeness is all」という意味深長な言葉があります。イタリアの特異な作家チェザーレ・パヴェーゼは、時間と場所が自意識のなかで重層的に推移する独自な小説『月とかがり火』のエピグラムとしてこの言葉を引用しています。Ripenessとは普通「機が熟すること」を意味しますが、「覚悟すること」と解釈している訳者もいます。大切なことは機が熟さなければ何事も成就しないし、人間はその成就へと決意し、その覚悟を促されます。とすれば、新たな「世界生成」へむけて、今こそ、決意すべく機が熟し、それを覚悟すべき時が来たたと言えるのではないでしょうか。

「あの長い年月のあいだ、わたしには夕暮れの菩提樹の梢を渡る風だけで充分だった」

(チェザーレ・パヴェーゼ、米川良夫訳『月とかがり火』より)

「日時計の丘」はひとつの「場所」です。そこに集うひと、ブログ「結晶時刻」を通じて交信するひとすべての人が「自然性と祝祭性」を同時に享受できる場所、「時熟と覚悟」が相関する、そのような場所になればと思いますし、ここでの企画や活動全てがそこへ向かうことができればと願っています。
多くの方が、自分の考え、感想、提案などをお送りくださることを願っています。

これから皆様からの自由な書き込みを期待しております。

「日時計の丘」の具体的活動、および催しプラン

1)音楽会

a)   あまりジャンルにとらわれず、プロ、アマにかかわりなく、さまざまな形態の音楽会を企画する。

b)   自由に演奏したい音楽家に、場所を提供する。

c)   特別企画

普通行われない演奏会を企画する。

たとえば:バッハおよびモーツアルトの鍵板を含んだ曲の全曲演奏。おそらく何年もかかるし、多くの演奏家の理解も必要だが、こういった特殊な企画も「日時計の丘」の重要な企画要素である。
「バッハ クラヴィーア作品連続演奏」は2015年2月22日で第6回を迎える。
「モーツアルト室内楽連続演奏」は第2回を企画している。今回は後期の作品を予定
している。

2) 造形芸術の展示企画

a) 「日時計の丘」所蔵の作品の常設展示。一か月をめどに部分的に掛け替える。

b) 国その他の条件に関係なく、テーマを設定した企画展示

c) 九州で現代活躍している作家の展示企画

d) 忘れられた物故作家の発掘と展示

e) 意欲的で質の高い、若い作家の作品展示

3)その他の企画

a)朗読会

「朗読会」は「日時計の丘」の重要な企画。今までにもさまざまな形で行ってきた。これからも他の分野・領域とコラボレイトして続けていきたい・。

b)読書会

これから力を入れていきたいと考えている分野。さまざまな方法を採用して、いろいろな読書会の企画を行う。

「思想研究」 「古典を読む」「明治・大正の文学」「戦後文学の意味」「現代文学の変貌」「郷土の文学」などの分科会の開設。それぞれの興味と読書遍歴によって分科会に参加していただく。

c)研究会と講演会

さまざまな分野の、しかもアクチュアルな課題を採りあげる。

興味を持っている方の集まりでの意見交換と専門家の講演などを同時に企画する。

*「森、川、海」といった大きなテーマのもとに、環境問題に理論的・実践的にかかわっ ていくきっかけを作り、それを実践につなげていく。
*「限界集落」を訪ねる。
実際に自分の足で歩いて記録してきた先達、折口、柳田、宮本、松永、杉浦などの著作を読むと同時に、現代日本の村落の状況を把握し、
これからのあり方を考える。

*「日常生活の精神病理」 現代社会はさまざまな精神疾患を誘発している。その実態の認識を経験的に把握するために、現代病と言われる「うつ病」の実態や治療方法などに関して専門家の話を聞く、など具体性のある企画をおこなう。
これまでに「臨床講話」を精神医学者を招いて3回行った。「うつ病について」「認知症に関してどんなことに気をつけたらいいか」「がんに対して精神 的にどう対処するか」。次は「発達障害」についての講演。
不定期だが、以前からやっていた「ラカンを読む」を継続的に行なっている。今ラカンの『精神分析の倫理』を読んでいる。

d) 映画・紙芝居・影絵・寸劇
企画された催しに関係した映画上映は、その都度行なってきている。しかし、 ただ映画を見るだけでなく、他の分野と提携して新たに映画のもつ可能性 を探るのがここでの目的。

夏休みや春休みなどを利用して、子供たちに「紙芝居」や「影絵」の面白さを発見してもらう企画。
残念ながらこの企画はまだ実行されていない。賛同者を募っている。

e)映画・アニメ製作:この企画は「日時計の丘」全体の企画の総合として、将来へ向けての企画。
現在「自主映画上映会」(児玉公広主催)なる企画を実行し月に1回開催し、すでに4年が過ぎ回数は50回を超え、 上映した作品は500本を超える。
また「日時計の丘」による映画制作の企画もある。

これらすべての企画が「みる、きく、よむ」を総合的に編集して実行される。

One Thought on “まえがき

  1. また読みに来ます。

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