人はいつか必ず死ぬ。この言葉は世界中どこでも通用する唯一の重い言葉と言っていいだろう。それは民族・国家・宗教・時代などと関係ない。全ての人間がこの地上に生まれてきた証でさえあるのだから。死自体は普遍だが、それを取り扱う方法や埋葬の仕方は地域・宗教・時代等によって様々に変化する。

私は旅行をした時、国の内外にかかわりなく、できたらその土地の墓地を見に行くことにしている。旅の途中で過去の記憶をたどったり、様々な夢想に取り憑かれたり、時にはまた自分の現在の姿を振り返ったりするのに適した場所だからである。墓地は、自然と人間がいかに深くつながっているかを考えさせてくれる場所でもある。また今現に、自分がやってきたその土地にかかわる、かなり昔からの生活習慣などがそこにはっきりと残っているからでもある。墓地に行くとやはり、自分よりも早く亡くなってしまった人々に対する思いが自然と胸に響いてくる。葬られた人の身分によって墓のある位置や大きさ、墓碑銘などの書き方、刻み方などが変わってくるのは、どこの土地にも共通しているように見える。墓地は歴史と社会のあり方を示している場所でもあるのだ。

スペインで海に面した墓地を尋ねた時、その違いを痛感したことがある。身分の高い、あるいは貧富の差によって、墓のある場所、大きさ、死者の葬り方まで違っているのに驚いたことがある。普通の市民の墓は、引き出しのようになっており、死者はその引き出しの中に葬っって収められる。その引き出しが上下に7−8つほど縦に積まれ、横には20以上の引き出しが並べられ、大きな石の箪笥のように見える。葬られておよそ30年ほど経つと、届けがない限り、引き出しは空にされ、無縁仏となるのだという。そこに眠っている人を知っている人が一人もいなくなってしまったら、墓はどこかに片付けられてしまうのだ。無縁仏とはその一連の時の流れの別名なのだとも思えてくる。同時にまた墓地は、死者たちの生前の身分や貧富の差を消し去り、全てが同じ死者として生きているという哀しみを乗り越えた場所を指し示してくれているように思えてくる。

また、墓地として興味深いのはユダヤ人墓地である。ユダヤ人墓地といえば、プラハ、ワルシャワ、ベルリンなどの大都会にあったものが有名だが、南ドイツ、シュワーベン地方のネッカー川の上流に位置する寒村に点在するユダヤ人墓地も様々なことを考えさせてくれる。その一つにハイガーロッホという小さな町にあるユダヤ人墓地がある。その町はプロイセンの王様の居城でもあった有名なホーエンツォルレン城のあるところから西へ30キロメートルほど小高い丘に連なる野原の道をいったところにある。景観も特殊で変わった地形の場所である。石灰岩の板を積み上げたような切り立った丘の下を、アイアッハという川がSの字型に丸く曲がりくねって流れており、樽の底に当たる低い場所と、樽の縁のような高いところに位置する場所との二つがうまく収まっていて、下から上を見ても、上から下を見ても興味深い印象を与える地形であり、下町と上の町を結ぶ坂道に沿って建てられている家並も特殊に美しい。その町の東側を流れるアイアッハ川から少し丘の方に上がったところにユダヤ人墓地がある。今からおよそ1千年ほどもまえに、この近くの小さな町に貧しいユダヤ人の職人達が集められ、町外れに居住させられたのだという。そういう町がこの辺には点在している。不思議な現象である。それにはまた不可解な歴史がついてまわっているようだ。第二次大戦までそのユダヤ人居住地は残されており、小さなシナゴーグも建てられていたという。そこに住んでいたユダヤ人全て1938年までに強制的に退去させられ、シナゴーグは壊され、ユダヤ人の通った小学校も閉鎖されたという。その結果ユダヤ人の墓地だけがそこに残されたというわけである。その墓地にはかなりの数の墓石がある。東側を向いた方にはヘブライ語でその裏にドイツ語で誰の墓か分かるようにローマ字で名前と生まれた年と亡くなった年が刻んである。古いものは墓石自体がすでに壊れていて、誰の墓かわからなくなってしまったものも多い。印象的なのは全ての墓が東向きに並べられていることと、花や樹木などは墓の側には一切植えてないことである。キリスト教の墓地が天国を象徴するが如く美しい花と緑の木で飾られているのと対照的である。戦後になって、自分の祖先が眠っている墓地にお参りに来るユダヤ人はこれまで皆無に近いという。誰もここに帰ってこないのである。子孫も亡くなってしまったのか、方方に離散してしまっているのかだろう。あるいは墓地に対する考え方が
われわれとかなり異なっているのかも知れない。いかにもユダヤ人墓地の宿命のように思えてくる。
ただ戦後ドイツの国家政策のような形で、ユダヤ人は一人もいなくなっても、ユダヤ人墓地はその町が綺麗に保存するよう予算を組み、その保存を誠実に実行している。それゆえ墓石や墓碑は朽ちていくが回りは清掃され、芝はいつも緑に保たれている。ここも何か不思議な場所である。あるいはこのてのユダヤ人墓地はユダヤ教の墓所としては、逆に特殊なものなのかもしれない。イスラエルの墓地はどうなっているのだろう。
この辺だけに特殊な事柄ではないが、その裏が墓地になっている教会の外の壁に、第一次大戦で戦死した、その村あるいはその町の戦死者の名前が刻まれ、その上のほうに「あなた方は故郷のために戦ったのだ」とか「君たちは故郷のために死んだのだ」とか「われわれは、君たちの帰郷を待っている」とか言った言葉が刻まれている。それは教会だけでなく町役場の建物に刻んである場合もある。特徴的なのは、ほとんどの墓碑銘に「故郷」(Heimat)という言葉が刻まれていることである。「故郷のために」という意識が強かったのであろうか。それにこのような墓碑銘が刻まれているのは、第一次大戦のものだけが多い。やはり第一次と第二次大戦とは、その意味が戦ったものにも残されたものにとっても大きく異なっていることがよく分かる。にもかかわらず、政治的状況がそこに少しかかわっているのかも知れないが、戦死者たちへの実の思いはおそらく変わることはなかったはずである。
パリ東駅のプラットホームに向かったところに、同じような戦死者への追悼の墓碑銘が刻んであったのを見た時、死者を追悼するという生き残った人たちの思いは、どこの国でも時代を越えて受け継がれて行くのだとつくづく思ったことを思い出す。と同時に私の故郷の村の寺にあった墓に、「志村一男、昭和十九年フィリッピンにて戦死、享年二十三才」と墓誌に刻んであったのを思い出した。これは一つの墓碑銘である、と言っていいだろう。墓を建てた人の名前は赤色で刻んであった。生き残った家族が建てた墓である事がそれでわかるし、その思いも伝わってくる。墓は自分では建てられない。墓は生きている人間の、自分より早く旅立っていってしまっ人への追憶の一つの表現なのである。特に戦死の場合はその思い入れには強いものがあるのだろう。
やはり戦死は、なにか特殊なものだという意識が、残された人間にはあるのかもしれない。しかし、いずれにしても墓地はそれぞれの墓碑銘を守り、そこに参り來る人々に、そこは死者と生者の存在を深く交わらせてくれる場所であることは、どこの国どこの地方の墓地でもその同じ思いを抱かせ実感させる不思議な場所であることは、確かなような気がする。それは、どこの墓地に行っても同じだからである。

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