私の周りに、俳句を作る人が結構いる。毎週句会に出かける人、すでに自分の句集を発刊している方も多い。俳句は私たちに馴染みある文学なのだろう。外国にも俳句を作る人は多くいるという。俳句が世界で最も短い詩型だという一般論は、世界によく知られれいる事実である。俳句についての書物も、私たちが考えている以上にたくさん出版されている。自分で句作している人も多い。ただ私に気になるのは外国語で俳句が作られうるか、ということである。外国人が俳句として書いた作品を読むと、ただ短い句を三行に並べて書いたとしか思えないものから、苦心して英語・独語・仏語などの母音の数を五・七・五に合わせてあるものもあるが、どうしてか俳句にはなかなか近づかない。芭蕉、蕪村、一茶などの句を翻訳した文章を読んでも、翻訳者の苦心や努力は伝わってくるし、言いたい意味や状況は分かるのだが、俳句の感性はなかなか伝わってこないのである。日本語による俳句の特質を知っているので余計俳句らしさが感じられないのかも知れない。また、私が外国語に長けていないからかもしれないが、やはりそれだけではなさそうだ。やはり俳句は日本語でなければ成り立たないようにさえ思われてくる。

友人に短歌・俳句・詩をよくする方がいる。NHK の短歌や俳句によく紹介されたり多くの賞をとっている方である。彼の友人でドイツ語で俳句を作る方がおられ、その方の作品集が送られてきた。二つの言語が並列されて書かれている。ドイツ語で書かれた方の 文章を読んでも俳句らしい感じはしないのだが、友人が訳した日本語のほうをみると、不思議にも俳句らしくなっているのである。内容から見るとニュアンスには違いがるが、両方ともそれほど違ったことを言っているわけではない。にもかかわらず、ドイツ語の方はいわゆる「俳句」になっていないのである。友人の日本語ヘの翻訳が優れていることもあるのだが、ドイツ語の文章を読んでみても、どうしても俳句とは思えないのである。完璧なバイリンガルの方、つまり両方が同じ程度に高度な語学力と知識のある人が読んだら、両方とも俳句のように響くのだろうか。そこのところはよくわからない。外国語で書かれたものは「HAIKU」日本語のものは「俳句」と言っていいと思うが、うまくすれば「HAIKU=俳句」になる可能性もあるのかも知れない。
そのことについて一つ考えさせられ、感激さえする話をここに書いてみようと思う。内容は、NHKの2001年『ETV特集』で放映された「バルカン俳句紀行」からの受け売りだが、私が興味をもったところを中心に書くことにする。
2000年9月、旧ユーゴスラヴィアから独立したスロヴェニアの首都ルイブリアーナで、17カ国の俳人が集まって「世界俳句大会」が開かれた。戦乱の10年を越えて集まった旧ユーゴの人々からひときわ喝采をあび、その世話役を務めたのがウラディミール・デヴィで氏だった。氏は数学者で退官した大学教授である。1962年日本に留学し、東大で研修をしていた。数学の研究をやりながら、氏は日本の短詩「俳句」に興味を持ち、本格的に俳句について勉強し、自分でも俳句を作るようになっていった。氏は数学と俳句はその完結性という点で共通するところがある、と言う。本国に帰ってからも俳句の研究を続け、俳句をユーゴスラヴィアに広めた貢献者である。俳句についての著作も多い。
氏は「俳句は鳥のように国境も民族も越えて人々を結びつける」と言い、俳句の雜誌やパンフレットのようなものを発行し、精力的に俳句を広めようと努力したのである。ユーゴスラヴィア全土から、俳句が彼のところにたくさん寄せられるようになった。そのころから民族紛争が多発し、さらにそれは大国の参戦によって長期化し泥沼化の様相を呈してきた。何のために戦っているのかもわからなくなり、戦争は何時終わるとも分からず続いていた。それから様々な悲劇がデヴィデ氏のところに報告されるようになった。それでもなお、俳句を送ってくる人は絶えなかった。しかし、デヴィデ氏に一つの不安があった。7年前に氏を訪ねてきてから、毎回のようにすぐれた俳句を書き送ってきた一人の青年からのたよりが、ぱったりとこなくなったのである。その青年はダルマチア生まれ、クロアチアで少年時代を過ごし、そこで育ったセルヴィア人という複雑な経歴の持ち主だった。戦争が激しくなり、クロアチアからセルヴィア人は排除され追放され始めた。村内の隣近所でも容赦なかった。デヴィデ氏は彼のことが気になり、もしかしたらという不吉な予感さえ感ずるようになった。幸運なことにNHK取材班のおかげで、その青年は生存していることが判明し、デヴィデ氏と再開することが出来たのである。その青年の名前は、リュポミール・ドラコヴィッチさん。ドラコヴィッチさんは、内戦で村を追われ難民として各地を転々としながら、生まれ育った大地への思いを俳句にして書き続けていた。彼の俳句にはいつも、少年期を過ごしたアドリア海に連なるカルスト台地が登場するという。オリーヴの実る頃には、そこの農家で働き、それが終わればまた次の仕事を探す。友人を頼りにロンドンまでも行ったことがあるという。しかし、そこに定住する事なくすぐ帰国する。ドラコヴィッチさんの脳裏を離れず、決して忘れることができなかったのは、アドリア海とそのカルスト台地の風景だったのだ。放浪生活が長くなればなるほど、その思いは強くなっていった、という。「なぜ定職を持たないのですか」と聞かれると、「放浪がいいのです。『奥の細道』を書いたあの俳人芭蕉だって、旅に生き旅に死んでいったではありませんか、私は『ユーゴスラヴィアの細道』のような俳句紀行を書きたいのです』といった意味のことを答えたという。私はその時点で、ドラコヴィッチさんは「俳句」の精神をすでに身につけていると思った。ドラコヴィッチさんの俳句「この秋 私と雲に 薄い希望」という句があった。私はこの句を読んで涙が出てきそうだった。こんな俳句を作った人はおそらく日本人にはいないだろう、とさえ思った。ユーゴスラヴィアの内戦の中を放浪せざるを得なかったドラコヴィッチさんにしか書けない俳句だからだ。その理由は「薄い希望」という言葉にある。日本人が日本語で「希望」とい言葉に「薄い」という形容詞をつけることは、おそらくないからである。しかし「薄い希望」という言葉にドラコヴィッチさんの思いが宿り俳句として表現されているように思う。他の言葉ではドラコヴィッチさんの思いは伝わらないのだ。
ただここで私が感ずるのは、この句はおそらくデヴィデ氏の翻訳したものであろう、ということだ。
ドラコヴィッチさんの原文が何語で書かれていたかわからないが、「薄い希望」と訳したデヴィデ氏に俳句的なものが備わっていたとしか言いようがない。またもし、ドラコヴィッチさんが自分でこの句を日本語で書いたとしたら、彼はもう立派な日本の俳人になっていたと言っていいと思う。つまり日本人でない俳人が生まれていたのである。「この秋 私と雲に 薄い希望」という句が書ける日本人はいないからである。まさに俳句は国境を超えて世界に広がるのだ。もしそこに一つ条件がつくとすれば、俳句は日本語によってなせる技であるということであろう。その意味でも私は、この句は歴史に残る名句だと言っていい思う。もちろん俳句としての難はある。俳句を作っている人から見れば俳句になっていないと言うかもしれない。例えば強引に五・七・五に作り変えて「この秋や 私と雲に 薄い望」などとしたらこの句のもつ意味と質感が全く失われてしまう。何時終わるとも知れぬ母国の内戦の中、句を作りながら放浪したドラコヴィッチさんのこの作品は、俳句を越えてしまった俳句として残されていいと思う。あの状況の中で、「薄い希望」の他何も持てなかったに違いないし、「薄い希望」という日本語はドラコヴィッチさんの心境を私たちに伝えて余りある、と私は思う。
(俳句を学んでいる方のご意見をお聞きしたい、と願うものである。)

それにしても、ドラコヴィッチさんは「ユーゴスラヴィアの細道」を書いたのだろうか。今でも気になっている。

2 Thoughts on “国境を越える「俳句」

  1. masatoshi on 2015年6月25日 at 11:34 PM said:

    緒方宏司様

    いつも、コメントありがとうございます。
    緒方さんのコメントにより、私の書いた内容に広がりが出てきます。
    参考にさせて頂いています。

  2. 緒方宏司 on 2015年6月26日 at 12:05 AM said:

    緒方宏司

    国境を超える「俳句」に

    私は、「俳句は日本だけの伝統的文学一つであってもいい。」とさえ今でも思っています。外国でもその国、その民族、その部族にしかない伝統的文学形態が存在すると思う。それはそれでそれなりに存在意義があると思う。
    俳句は少なくとも原稿用紙1~2枚以上で表現するような内容の散文を、5・7・5の17文字の韻文に凝縮させてるような日本の伝統的文学です。韻文ですから一定の韻律を聴覚にも訴える必要性があります。また文字数が極端に少なくそのために便利な表現法をいくつか編み出していると思います。例えば、
    季語
    切れ字(や、かな、らむ、などです)                       
    季語はそれだけで春、夏、秋、冬のどの季節なのかを表すだけでなく、その季語によってはもっと限定的に初春、晩春などロケーションが的確に表現できます。しかもその時の人々の活動、犬猫など動物たちの行動、風の流れ、日差しの度合いまで想像できます。
    次に切れ字
      閑かさや岩にしみいる蝉の声
      おもしろうてやがて悲しき鵜飼かな
    「や」「かな」などの切れ字は余情を表現するのにすごく頼もしい言葉だとおもいます。作者の置かれた状況をも想像することができるのだと思います。だからそれを読む人のある程度自由な余情の受け取り方も可です。
    こんな季語と切れ字などの表現法が外国語で可能なのだろうか?と俳句の素晴らしさを日本人として自慢に思っています。
    しかし、何と「この秋私と雲に 薄い希望」
    原語ではどのように書かれていたかわかりませんが、翻訳された方の俳句に対する造詣の深さに感心します。また一方でその句は上記のように「翻訳せざるを得ない」卓越した感性を持った原作だったと思いたい。
    日本だけでの文学でもいいと思っていた俳句がこのようにいとも簡単に外国の人に「作品」にされるとは…..。
    「HAIKU=俳句」になる可能性は大いにあるとおもいはじめているところです。

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