「みる、きく、よむ」は「日時計の丘」の当初からの標語であった。この三つの組み合わせで、文化を総合的に捉えようとしてきた。これまで決してうまくいったとは思っていないが、そのモットーを目指してきた。それなりに私たちの試みを理解してくださった方もおられ、有難いと思う。それを踏まえて、私たちはさらに進んでいかなければならない。先がはっきり見えているわけではないが、終わりがないことだけは確かのようだ。あとは何か余韻のようなものが残り続けてくれることを願うより外にない。

そもそも「みる・きく・よむ」はクロード・レヴィ=ストロースの最後の著作“Regarder écouter lire(plon 1983)からの借り物である。レヴィ=ストロースは20世紀の思想を決定づけた、いわゆる「構造主義」の生みの親であるが、その著作を読んでいると、フィールドワークによる膨大な資料とそれにかかわる知識とそれを学術的著作にまとめ上げる方法と技術は群を抜いている、と思う。それだけではない。私があえてここで強調したいのはその著作を支えている芸術的感性とでも言うべき表現である。この言語表現の卓越性がレヴィ=ストロースの「構造主義」の学術的理論を可能にさせている条件であることは、間違いないと私は思う。まさに文学でない芸術作品とでも言っていい名文である。やはり芸術的感性に彩られた言語表現が伴わなければ大学者にはなれないのだ。かのガリレオ・ガリレイに『天文対話』(正式には「プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系についての対話」)という作品がある。この作品はイタリア語の名文だそうで、学校の国語の教科書に載せられるほどであるという。科学論文といえども言語表現であるかぎり美しい文章である必要があるし、その内容も読む者にとってさまざまな種類の興味を喚起させるものでなければならない。また、「マルクスの『資本論』は小説のように読むとよく理解できる」と真面目に語った学者がいる。これも同じような主旨の発言と考えていいと思う。何とも楽しいではないか。そこで言えることはガリレオの『天文対話』もデカルトの『方法序説』もマルクスの『資本論』も「書かれた作品」であるということである。
前述のレヴィ=ストロースの作品を読めば、絵画・音樂・言語作品がジャンルとしては異なっても、精神のあり方を規定し保存しうるのは「構造」という形式によって可能になっているのだということを語ろうとしているように見える。さらに言えば、レヴィ・ストロースは、「みる、きく、よむ」は最終的には「かく」(=書く)事によって完結するのだと考え、主張し、実際に書いたのだと思う。『悲しき熱帯』も『野生の思考』も、言語によって書かれた作品なのである。作品のそのあり方を看過してはならない。
そこでわれわれの「日時計の丘」の標語に「かく」を追加し、これからは「みる、きく、よむ、かく」として活動していくことになる。

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