子供の頃から「流浪の民」という曲を聞かされてきた気がする。姉がよく歌っていたからである。戦後すぐの頃のことである。それから「何処ゆくか、流浪の民、、」という最後の言葉だけが耳につてはなれなかった。今もそれは変わっていない。何か分からないが、田舎に住んでいた私たち子どもにとって「流浪の民」という言葉から見知らぬ異国の世界がどこか遠いところにあり、そこで何処へいくとも分からず、彷徨っている人達のことが気になったのである。「流浪の民」とはどんな人達だろうと。この曲がシューマン作曲の合唱曲であることを知ったのは、高校の時音楽部の人たちが音楽室で歌っていたし、それが当時は合唱曲の定番であった事を知ったのもその頃のことだ。その時も「何処ゆくか、流浪の民、、」という最後のところだけがやけに響いてきた記憶がある。この合唱曲は現在はあまり歌われなってしまったらしい。「流浪の民」とい言葉も忘れ去られてしまうのだろうか。

「流浪の民」とはジプシー(現代はジプシーという語は差別用語だということで「ロマ」と呼ぶことになったが、必ずしもジプシーという言葉と同意語ではない)のことであるが、合唱曲「流浪の民」は<Zigeunerleben>と言ってドイツの詩人エマヌエル・フォン・ガイベルの詩にシューマンが曲をつけたものである。「流浪の民」という題名は、訳者である石倉小三郎の訳語で、原語を直訳すれば「ジプシーの生活」ぐらいの意味である。昭和初期の頃から石倉訳で歌われてきたので、曲名として「流浪の民」に定着してしまったのである。石倉訳は文語調で響きはいいが、音樂の方に合わせたのか全くの意訳で、原語に忠実ではないとして批判されることもるが、歴史的な意味はあるとは言えるだろう。意訳であろうと時には誤訳であったとしても、言葉の響きがあり一旦流布されてしまうと、その言葉がずっと使われるようになってしまうことが往々にしてあるのである。「何処行くか、流浪の民,、、」などがその典型である。どこへ行くのか分からないが、旅に旅を重ねるジプシーの哀しみのようなものは伝わってくる。

スペインのノーベル賞作家J.R.ヒメネスの作品に石井崇が挿絵を描いた『プラテーロとわたし』という詩画集がある。詩画集と言っても、本は小さいが、版画はかなり大きく装丁が素晴らしい箱のなかに入っている。プラテーロとは作者が飼っていたロバの愛称で、この叙事詩、別名「アンダルシアのエレジー」はこのロバに語りかけるように書いた作品である。石井さんの版画は12枚あると言っていたが、2008年に出た作品集<TAKASHI ISHI>には16枚載っている。それぞれの箱に2枚の版画が入っていた。どれにするか迷ったが「やまももうり」という題名の絵があり、いかにもアンダルシアらしい家の並ぶ街の路地を二頭のロバが反対方向に人を乗せて歩いているところが描かれていたのが気に入ってこれを買った記憶がある。もう一枚は「アンジェラスの鐘」という題の絵だったことが最近わかった。これもなかなか雰囲気のある絵だ。もちろん原画ではなくリトグラフだが、色が実に素晴らしかった。宮崎県出身で大学病院の放射線科の医者に嫁いだ女子学生の結婚祝いに贈呈してしまって、それ以来その絵は家にないから思い出せなかったが、<TAKASHI ISHI>(求龍堂、2008)でそれが「アンジェラスの鐘」という題名であったことがわかったのである。その女性は結婚後二年ほどして24歳ほどで乳癌にかかり夭逝してしまった。今考えてもなんとも悲しい思い出である。誰の話も聞いてあげるような優しい学生だった。この詩画集も大学の研究室に売りに来た若い女性から買ったのである。その女性はある画廊に勤めていて、そこの画廊で私は、イタリアの作家マリノ・マリー二の作品も買った。それは一見馬の絵とはわからない抽象画だが気にいって応接間にずっと掛けてある。今でも他の絵に掛け替える気にはならない。その後二週間ほどしてその画廊に行ったが、その女性はもうそこにはいなかった。店員さんに聞いてもどこへ行ったかわからないという。今では顔も思い出せない。でも、家の寝室に入る壁にかけてあるアンダルシアの街を行くロバの絵を見ると、長いことずっと忘れていた奇妙な別れを味わった二人の女声の記憶が時に蘇ってくることがある。壁に掛けてある絵は毎日見ているようで、実は意識的に見ないと、人間の目には絵が実は見えていないのだ。奇妙なことである。石井さんには『おれたちがジプシーだったとき』(新潮社、1986)という詩文集もあり、スペインのアンダルシア地方で、ジプシーと一緒に暮らして、旅をしていた頃のことが綴られている。読むとジプシーの人々の奇妙な性格と暮らしぶりが、体験を通して伝わってくる。石井さんは今千葉の南房総の館山に住んでおられるとのことであるが、今でも年に何回かスペインのアンダルシアに出かけるという。そこで今でもジプシーの人々にお会いするのだろうか。

私がドイツの大学に初めて行った時、大学で紹介された下宿は大学から北に二十分ほど坂を上がった丘の上にあった。南ドイツは戦後フランス軍によって統治されていた。そのなごりで坂の上に大きなフランス軍の病院の建物ががあった。その裏側に私の下宿はあったのである。<Amselweg>という名前の通りだった。アムゼルというのは「つぐみ」という鳥の名前だから「つぐみ通り」とでも言えばいいのだろうか。家の後ろに黒っぽい鳥がよく何かを啄んでいた。下宿の主人が、それがアムゼルだと教えてくれたが、日本で言う「つぐみ」とはあまり似ていないように思った。私の下宿をさらに北西の方向に下って行くと自動車道にでる。そこにガソリンスタンドがあった。そこから西に向かって自動車が走るのだが、そのガソリンスタンドから次の集落まで5キロメートルほどあるが、両側とも全く家はなかった。森と野原だけだった。次の集落は、ベーベンハウゼンという有名なシトー派の修道院がそこにはある。新しい建物は建てられない環境保護地区の集落である。修道院を中心に、農家らしい家がいくつか並んでいた。確かに新しい家はなかった。
ある日その近くを散歩をしていた時、修道院の手前1キロぐらいのところの草原に、テントを張り生活している人々がいた。テントの前にはキャンピングカー2台と大きな乗用車が止まっていた。そこに野宿していたのがジプシーだったのである。私が初めてジプシーに出会った時である。そこでは何語を話すのかも分からず、ジプシーの人達と話すことはできなかったが、テントの横をゆっくりと歩いて、どんな生活をしているのかを覗こうと思ったがそれも出来ずに帰ってきた。あとで、ジプシーの人たちはあのような村境によくとどまっているという、昔入会地と呼ばれたような場所だそうである。それにしてもそこで見たジプシーの人たちは着ているものもからも、私が想像していた以上に貧しい暮らしのようには思えなかった。キャンピングカーも立派だし、止まっていた自動車は大型のベンツ車だった。ジプシーの子どもは学校にも行けず、大人でも識字率は低く、旅から旅へと渡り歩くまさに「流浪の民」という知識しかなかったので、その時の印象はそれと全く違うものだった。
その後、ハイデルベルクの近くの街で、ジプシーの青年に出会って話したことがある。自分は今高校に通っているし、大学にも行きたいようなことを言っていた。彼は流暢なドイツ語を話していた。別れ際に「俺達はもう旅はしない。定住するのだ」ときっぱり言ったのが今でも耳に残っている。人の話によると、以前はジプシーはパスポート無しで国境を超えることが出来、国籍のない人たちが大勢いたらしいが、今はどこかの国籍を持ちパスポートももっているという。同じジプシーでもいろいろあるらしい。ローマでは、ジプシーは物乞いか泥棒だから注意しなさい、と宿の主人に言われたことがある。そういえばコロッセウムの周りには、多くの物乞い、悪く言えば乞食がたむろしていた。黒い衣をまとった母親らしき女性が、子どもを抱きながら手を出して通行人に物乞いしている姿はどこの路地にも見られた。時には女の子二人で老人にまとわりつき、老人の反応の鈍さにつけこんで、カバンに手を入れているところを、私もこの目で見たこともある。凄まじかった。こうでもしないと生きていけないのだろうか。このような光景を見ると、ジプシーは貧しいという印象が強く残る。真新しいキャンピングカーに乗って旅するジプシーと大違いだと痛感した。

ヨーロッパの映画や小説にジプシーが出てくるものは多い。そういうものを見たり読んだりすると、ジプシーが差別されてきたことがよく分かる。ただ音樂に関して言えば、独特のものがあるようだ。多くの作曲家がジプシーの音樂を取り入れている。モーツアルト、ブラームスやリスト、ハンガリーの作曲家バルトーク。直接にはフランスの作曲家ビゼーの「歌劇ーカルメン」などなど。私の古くから親しんできたものにもある。中学生の頃からSPレコードで聞いたサラサーテの「チゴイネルワイゼン」などがその一つだ。チゴイナーはジプシーのドイツでの呼び名である。そのレコードはハイフェッツのヴァイオリン演奏だった。ハイフェッツの演奏するチゴイネルワイゼンは今でも名演奏、名盤であると聞く。確かに他の人の演奏もたくさん聞いたが、なぜかどこか見劣りがする。ハイフェッツの演奏はヴァイオリンのテクニックも音楽性も群を抜いていると、私も思う。
ジプシーは以前からブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、など、いわゆる東欧と呼ばれる地域にに多く住んでいたこともあってか、それらの国ではジプシーの音樂は普通に演奏されるらしい。ジプシー自身が奏でる音樂は、街のお祭りの日に街の広場でやっている。そのリズムと哀愁を帯びたメロディは独特で、心を打つ。私の好きな民族音楽である。スペイン南部のアンダルシア地方にも多くのジプシーが住んでおり、ヨーロッパ音樂の中で成立したジプシーの音樂と言われるフラメンコなどは、踊りとともに世界中で愛されている。またそれが、アルゼンチンやキューバに渡りさらに独特の進化をとげ、いわゆるラテン音楽となる。ジプシーの音樂ほど世界に広がって影響を与えた音樂は他には見つからない。もちろん、ジプシー音楽の持つリズムがそれぞれの国に伝えられてそれにそれぞれの地方色が加わったのだが、基本的には、放浪するジプシーの中に流れている、何とも言いがたい哀感が、われわれの心に共鳴してくるのではないだろうか。私はジプシー音楽から感ずるその哀感を「涙以前の哀しみ」とでも言うより外にないような気がする。
ジプシーの出自は、北インドから来たというのが現在歴史的に確認されているらしいが、西方浄土ではないが、楽園が西にあるという幻想を持って西へ西へと移動していったらしい。その長い歴史の中で、定住せず旅をする民族という伝説が生まれたようだ。どこへ行っても異民族呼ばわりされ、差別されてきたが、その過酷な歴史を生きてきた自負のようなものもあるに違いない。私が直接出会ったジプシーの人はあまり多くはないが、どの人もやさしく、人懐こい感じがあった。白人とは違った自意識を持っているようにも見えた。NHKのドキュメンタリー風の映像作品で、作詞家の阿木燿子がジプシーと暮らし旅をするというものがあったが、後に阿木はジプシーの人々は慇懃でやさしかったと、言っていたという。ジプシーの家族と阿木燿子が別れる場面で、その一行が村祭りに出かける旅先の村外れの、誰もいない道端で阿木一人だけ車から降り、とぼとぼと歩いて行くところは、脚色された場面だろうが、とても印象的だった。私の思い込みのためか、別れはジプシーにとって極く普通の日常的なことなのかも知れないとも思った。阿木耀子との別れの場面も、それほど無作為なものだった。阿木だけが涙を流していたようだった。それが逆に何とも言えぬ哀感を伝えていたのである。

ジプシーとの独特の別れを描いた映像作品がある。これもNHKで1983年に放映された、佐々木昭一郎制作・監督の『アンダルシアの虹』という作品である。いわゆる「川シリーズ」(*)と呼ばれる三部作の一つだが、ピアノ調律をしながら旅する女性、栄子(中尾幸世)がジプシーの村の人々とのさまざまな交流を描き、最後にそれぞれの人々とそれぞれの別れを経験するという内容だが、そこにも、ジプシーは「旅に出る」そこには「別れがある」というジプシー神話が生きている。その哀歓を佐々木はうまく活かしている。人との別れの先に死というものがある、というのが佐々木のテーマだが、それが親しんだ人々との別れに隠れていて表には出ず、そこに出てくる人々ではなく、別れの場面でそれを見る人にそう感じさせるように演出しているところは、佐々木作品の真髄だろう。他の佐々木作品すべてに、その同じテーマが流れており、川の流れがそれを象徴しているのだが、それがうまく伝わってくるのは、映像の美しさとそこに出てくる人々の暖かさややさしさがそのテーマをうまく包んでいるからである。佐々木作品の魅力である。映像の間に出てくる、人々の顔を描く中尾の鉛筆のスケッチがその哀歓をさり気なく、しかも深刻ににじませて映像作品に深みを与えている。『アンダルシアの虹』では、栄子の自転車の修理を約束したジプシーの少年が出来上がった自転車でやってきて、この村を去る栄子と最後に別れる場面はひときわ少年の哀しみが伝わってきて感動を与える。やはり「ジプシー」という人々自身が経験したように語られる「旅と別れ」ということが重みを持っているのである。ジプシーの人々にとって「旅と別れ」は私たちの経験と全く異なった意味を持っているのかもしれないが、やはり私たち日本人には、ジプシーは「何処行くか、流浪の民、、、」というイメージが染み付いてしまっているのだ。

私も近いうちにスペインアンダルシア地方に行き、ロマの人たちの奏でる音樂をその場で聞いてみたい。

(*)佐々木昭一郎:「川」三部作
『川の流れはヴァイオリンの音』(イタリア、ポー川、1981)
『アンダルシアの虹』(スペイン南部、グアダルキビール川、1983)
『春・音の光』(スロヴァキア、ドナウ川、1984)

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