誰にでも物を収集する癖があるという。程度問題でもあるが、物を集めることは何故か楽しいことらしい。収集癖は人間だけでなく動物にも観察されるという。人間の場合それが過剰になってしまうところが動物と違うところだろう。
最近見ることはほとんどなくなってきたが、「なんでも鑑定団』というテレビ番組が長く続いている。収集に関心のある人が多いからだろう。それに収集したものが本物か、偽物かを専門家の方々が判定してくださるので、自分が鑑定を依頼した収集家が持参したもの対する判定を聞いて取る悲喜こもごもの態度が、家伝として大切にしていたものが全くの偽者だったり、ふと偶然に手に入れて忘れていたものが、重文に近い希少価値があるものだったりして、判定の結果を聞いた収集家の人間模様が垣間見られてこれもこの番組の魅力だろう。しかし、この番組に批判的な人もいる。私の知っている骨董屋さんは、あの番組のお陰で価格が吊り上げられたり、過小評価されたりする影響が出てきて困る、というのだ。骨董そのものには、私はあまり興味が無いが、気に入ったものを自分の手もおとにおきたいという願望はある。

私は友人の影響もあって、一時よく骨董市に出かけた。普通見かけない珍しいものに出会うことが多いからである。外国を旅してい入る時も、ある街で骨董市(蚤の市と言う)に出くわすと必ずそこの近くに車を止めて、見て回った。蚤の市は土曜日に開かれることが多い。そういうった催しは結構どこでも開かれているようだ。子どもまで参加していることもある。もちろん高価なものは買わないが、珍しいものは買いたくなる。普段から骨董店を営んでいる主人が売っているものは本物だが高価で買えない物が多いが、素人が並べているものの中には時に面白いものがあり、価格も安い。もう20年以上前にもなるだろうか、スペインの首都マドリードから西に向かうと大学町サラマンカがある。ここまで来ればもうポルトガルとの国境に近い。サラマンカとマドリードのほぼ中間に修道女聖テレージアの町アヴィラがある。アヴィラの近くの小さな街だったと思う。小さな橋を渡って町中に入る手前に広場があり、そこで蚤の市をやっていた。スペインでは初めてだったので興味深く覗いて歩いた。多くの人で賑わっていた。そこに普通どこでも売っていない、踊り子が使うカスタネットを売っていた。それを見せてほしいと手招すると、売り手の歳ごろ中年ぐらいの、黒髪を長く伸ばした女性が不思議そうに我々を見たが、カステネットを手で採り上げて二つの手で踊りのリズムを取るように鳴らしてくれた。カチカチと甲高くてきれいな音がした。日本の小学校の子供達がならしているカスタネットとはまるで違う音だった。こんな音を鳴らしながらスペインの女性たちはフラメンコのような動きのあるスペイン舞踊を、カスタネットのリズムに合わせながら踊るのだろうと思った。そのカスタネットを見ているだけで、音が聞こえてくるようだった。私は躊躇なくそのカスタネットを買った。値段は忘れたがそれほど高い気はしなかった、と思う。紫檀のような硬い木でできていた。ローズウッド製だと、その女性は教えてくれたように聞こえたが、言葉がよくわからなかった。どう見てもこれはローズウッドではなく、紫檀だと思う。紫檀というスペイン語が私に分からなかったのだ。自分で鳴らしてみても、なるほどというきれいな音が出た。上手な人が鳴らせばもっときれいに響くに違いない。とてもいいものを買ったと言う嬉しい気分になった。帰ってきてカスタネットの語源を調べたら「栗」という言葉から来ているらしい、そういえば形も色も栗に似ていると思った。私の買ったのは、フラメンコカスタネットと言うらしい。
もう一つ外国の蚤の市で買った珍しいものに、金子を入れる小さな革袋がある。現在はほとんど使われないが、どこか懐かしい感じのする品物だ。私はこの革袋を腰に吊るしているところを描いたブリューゲルの何枚かの絵画を見ていたので、ああこれだ、と思った。私はその革袋を二つ持っている。一つはフランスの田舎の町で買った記憶はあるが、どこの町かは覚えていない。茶色と黒の二つの色の革で出来ている。皮の感触がとてもいい。紙幣ではなく金属製の硬貨を入れたのであろう、中身が落ちないように紐で上部がくくるようにできている。これを現代風に財布と言ってしまうと、この縦長で下が丸く膨らんでいるこの革袋の感じが失われてしまう。いかにも一時代前の品物という感じがするものだが、腰に吊るして持ち歩いていたらしく、鍵も一緒に括りつけていたらしい。ブリューゲルの絵には、農民の女性がお祭りで踊っているスカートの上から紐で吊り下げられている革袋と鍵が二つ一緒に描かれているものがある。いずれにしても庶民の持ち物である。もう一つは買ったところはよく憶えている。精神的におかしいとしか言いようのない画家エゴン・シーレの母親が住んでいたところで、よく夏にそこを訪れていたというチェコの美しい町、チェルシー・クルムロフを西に車で走ってオーストリアの国境についた時、そこの売店で買ったのである。こちらは薄い青がかった白い色と半分は黒で、やはり二色の革で出来ているが、こちらは大きさもずっと小さく、品質も落ちる感じがする。子供用のものかも知れない。自分が使うわけでもないのに、珍しい古いものを買ってしまう癖が私にはあるようだ。二つとも私の家の応接室の棚のところに、カスタネットと一緒ににかけてある。私はこれらのものを見るたびに、旅の思い出とともに懐かしい気分になる。高価なものでもないのに忘れがたい愛着がある。「日時計の丘」を建ててからは、自宅の家にはそれほど来客があるわけでもないが、「これ何ですか」と聞かれたことは殆どない。関心がないのか、そもそも気がついていないのか分からないが、カスタネットと奇妙な革袋とはどう考えても結びつかないことは確かだ。何だろうとさえ思わないのかも知れない。ただ、私の中ではうまく結びついていて、思い入れもあり、決して捨てられないものになってしまっている。今、散歩にでも行くときにそれを下げていけば、誰か、それ何ですかと聞いてくれる人はいるに違いないが、それでは、旅に行った時と現在との間の懐かしい時間の流れが消えてしまう。カスタネットも革袋もこの部屋に吊るしてあるのがやはり一番ふさわしいような気がする。

私の住んでいる近くでは、太宰府天満宮の境内や筥崎宮の参道で骨董市が開かれている。
五年程前までは、よく行っていたが、今は殆ど行かなくなった。一緒に出かける人が居なくなったこともあるが、買いたいという気がなくなってきたというところが正直なところだ。しかし、そこで求めたものも結構ある。ただ、行きながら帰りに買おうと思っていたものが、帰りにもう売れていることがある。残念に思うこともあるが、諦めも早く来る。どうしても欲しいものは、行く時に帰りに買うからとっておいてほしいと頼むこともある。一度太宰府で、筑前琵琶を売っていた。買いたかったが五万円ほどしたので買わずに帰ってきた。次の時にはもう売れていてなかった。店主が「一週間前に売れましたよ、骨董品は買う時期を失ったらだめですよ」と残念そうに言ってくれた。売れてしまって残念がっている多くの人に出会っているからだろう。後でわかったことだが、筑前琵琶は相当高価なものらしい。品質を考えれば、買わずにいてよかったのかも知れない。その時は何故か買えなくて残念だったとも思わなかった。
外国での場合は、もう一度その町に来ることもないだろうから、買えなくても諦めも早く着く。また逆にもう此処に来ることもないから買えるものなら買っておこうと決心することもある。フランス中部にある有名な巡礼教会のあるヴェズレーに行った時、パリ在住の女性画家が描いた、小さな細密画を買ったことがある。赤紫の薄い洋服を着た日本女性のような丸顔の少女がちょっと憂い顔で何かを持ち上げている構図だった。「この少女は何をしているのですか」と近くにいた店の人に聞いてみたら、その方がこの絵の作者だった。そこで個展をしていたらしい。作者は女性だった。かなりのお年の方に見えたが背が高く細めできりっとした感じの方だった。顔は全く記憶に無い。その方の横にいた男性の方が、この絵の題名を裏に書いてくださった。作者の女性は軽く頷いていた。”LA JEUNE FILLE AUX ABEILLES”と書いてある。「蜂たちの少女」ぐらいの意味だろうから、少女が持ち上げているのは蜂の巣ということになる、そういえばその周りに黄色い蜂がたくさん飛び交っているように見える。その裏には木の葉っぱが模様のよう薄く塗った黒に近い色で散りばめて描いてある。奇妙な絵である。白っぽい丸顔で金髪めいた髪が印象的だが、目立たないからよくじっくりと見なければならない。よく見ていると、細部にまで様々な細密画ならではの工夫がしてあるのが分かってくる。私はこの不思議な絵が気に入っている。理由はわからない。やさしさがにじみ出てくるような感じがあるからだろうか。部屋の入口のところにかけてあるので、ドアを開くたびに見える。意識的に見ることは少なくなったが、私が最も数多く見ている絵であることは間違いない。しかし決して飽きることはなく、見るたびに心がなごむ。私が集めたものの中で最も愛着のあるものになっている。この絵は最後まで自分の処においておきたいと思っている。それほど不可思議な魅力ある絵なのである。収集した物としての意味があった品物だと思っている。

「収集する」ことにはもうひとつの面がある。それは次に書くことにしよう。

One Thought on “「収集する」ということ

  1. 緒方宏司 on 2015年4月18日 at 7:14 PM said:

    「収集する」ということ
    上記の表題を読んで「どこか懐かしい感じのする品物」は人それぞれに、人それぞれの品物があるんだなとしみじみと思う。なぜ「しみじみ」かというと、私の場合、ある種の何とも言い難い寂寥感と空虚感みたいなものを感じながらその物を手にするからだろう。過ぎ去った昔(過去)に思いを馳せることになるからだろう。その物はもちろん決して「鑑定団」に出せるようなしろ物ではない。価値は他人が決めるものではなく、本人もまた対価をもとめていない。
    高額な価値がついたものは、確かに家宝にはなるでしょうが、その価格価値を除けば「心の宝」的なものはないに等しいものが多い。
    私はその品物に関わる本人の「思い出」もあったらいいなと思います。
    最近、「断捨離」と言われることがある。
    「断」とは家に入ってくる必要のないものを断つ
    「捨」とは家にある必要のないものを捨てる
    「離」とは物への執着をなくす
    こうしていかないと、お年寄りの家中が納戸か倉庫みたいになっていく。
    日常生活をある程度快適におくっていくためには、やむを得ないことだと思う。
    家の中に存在する物はある意味「収集物」であるので、どのような物が必要で存在価値あるのかは、個人の判断基準があると思います。
    一つの基準として、以前ある専門家が物をとっておく目安として「いつも使う」、「時々使う」、「季節によって使う」、それと「思い出」の四つがあると言っていたのを私はおおむね採用したいと思っている。
    ここに書かれている革袋とカスタネットは金銭的にはたいしたことはなさそうだが、「非常に貴重な」物だと思います。捨てがたい色んな思いが詰まっている物だということが伝わってきます。だからこそ「その物」の居場所はそこでなければならないという約束がなされているのだと思います。
    革袋とカスタネットがその場所から時々語りかけてくるのだろうと想像するとホッコリします。
    「思い出」は心の中においてもそれなりのボリュウムとスペースを持って居場所を確保していると思います。しかもそれなりの甘酸っぱさをもって、、、。
    それでいて「収集する」ことはそれなりの魅力はある。
    「何」を「収集」したらいいかなと考えさせられます。

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