以前から気になっていたことだが、外国の国名、都市名、人名の日本語表記をもう少し考える必要を感ずることが最近多い。外国語の表記はどこの国でも悩ましい問題であるらしい。アラビア文字は私には判断がつきかねるが、アルファベットを使用する欧米諸国また漢字文化である中国語と比較しても、外国語表記に関して、日本語は漢字、ひらがな、カタカナの三種類の表記文字、ローマ字を使えば異なった4つの表記ができるので、こんな便利な言語は、世界中どこを探しても日本語以外にはないだろう。にもかかわらず、NHKの放送の字幕に「ベートーベン、交響曲第5番ハ短調『運命』」とあったし「ロミオとジュリエットの舞台になった都市ベローナ」と書いてあった。私はなにか恥ずかしい感じさえした。全てではないが、まだ新聞のほうがましである。フランスの作曲家<Ravel>は「ラヴェル」と記してあったし、イタリアの水の都<Venezia>は「ヴェネチア」と書いてあった。長椅子<bench>は「ベンチ」でいいが、合板<veneer>は「ベニア」ではなく「ヴェニア」の方が正確である。しかし、言葉はすでに流通してしまったら変えようがないところがある。「べニア板」を「ヴェニア板」と言ったら誰も分からないし、「テレビ」を「テレヴィ」と言ったらキザに聞こえる。難かしいのである。それは感覚の問題でもあるからである。

確かに外国語の日本語表記を完全に統一するのは困難だし、不可能だろう。特にRとLの発音の違いを日本語で表記するのは難しい。例えばドイツの文学者<Broch>と哲学者<Bloch>はどちらも日本では「ブロッホ」と表記され区別がつかない。文脈で区別するより無い。当国の発音を真似するのが一番いいと思うが、同じ都市でも英米・フランス・ドイツ等では異なった呼び方をする。例えば、イタリア北部の都市ミラノ<Milano>は英語とフランス語では<Milan>と書き「ミラン」と発音するが、ドイツ語では<Mailand>と綴り「マイランド」と発音する。日本語は「ミラノ」でいいが、サッカーのチームは日本では「ACミラノ」とは言わず、英語・フランス語読みで「ACミラン」と言いそのように書いている。ドイツの都市<Muenchen>は英語では<Munich>と記し「ミュニック」と発音する。日本では『ACミラン」のように英語ではなく、ドイツのサッカーチは「バイエルン・ミュンヘン」とドイツ語読みを採用している。そのように外国語の日本語表記にはなんの規則もない。はっきり言ってでたらめである。言語は通用すればそれでいいのだが、表記ぐらいどうにかしてもらいたいと思う。
明治時代に斉藤緑雨が作った(確かではないらしい)と言われる川柳に「ギョエーテとは俺のことかとゲーテ言い」というのがあるように、外国語の日本表記が難しいのは分かっていた。福沢諭吉は『学問のすすめ』のなかで原語を出さずに唐突に「「ヲブセルウェーション」とは事物を視察することなり」と書いている。<observation>をいきなり日本語表記にしているとは、あっぱれという他ないが、読む人はそれで理解できたのだろうか。今読んでも難しいのに。外国語の記載問題は、遡ればキリシタンのラテン語表記まで行き着くのだろうが、外国語を日本語表記にする場合の困難さはすでに明治期にははっきりと自覚されていたのである。明治期の文章を読むと、外国語をどう表記するかに書いた人が四苦八苦している様子が伺える。様々な方法を考案して悩んでいる。現在もその難しさは尾を引いていることは間違いない。
にもかかわらず、どうしもベートーベンやベローナは感覚的にいただけない。そう感ずるのは私だけだろうか。ベニアとヴェニアのように意味がわからなくなるわけでもないのだから、バイオリンよりヴァイオリンのほうが感じがいいし、ベートーヴェン、ヴェローナと書いたほうがいいではないか。

2 Thoughts on “休憩のひととき−外国語の表記の難しさ

  1. 遼太 on 2018年1月10日 at 1:48 AM said:

    ベートーベンやバイオリンは仕方ないと思います。ヴェやヴァの表記が定着化しなかった時代に定着した表記は変えると年配の人を中心に戸惑う人もいると思います。

    私がむしろ気になるのは、ロバート・ガーシア(英語風)やロベルト・ガルシア(スペイン語風)を、ロバート・ガルシアとする事です。名を英語、姓をスペイン語なんておかしいでしょう。
    他にもアルベルト・アインシュタインも名前だけアルバートだったり、あるドイツの銃器メーカーを”ヘッケラー・アンド・コッホ”と、”&”を”ウント”と読まずに英語読み。”アンド”なら”コック”と続けるべきなのに。
    一つの名前の中に異なる言語風の読み(主に英語風の読み)が混じる事です。
    それでもパルメザン・チーズ(仏+英)はやむえないと思ってしまいます。

    ネットや書籍・雑誌などの文字媒体は原語のアルファベット(非ラテン文字圏は課題が残るが)で表記する形である程度解決するにしても、原語の発音は日本語の発音の制約の多さからどうしても日本語読みは揺れが起きます(そもそも正確な発音をいちいち確認するなど一般人には非現実的)。
    日本語の発音体系の制約が根本的に変わらない限りどうしようもないでしょう。

  2. masatoshi on 2018年3月17日 at 9:04 PM said:

    遼太様

    貴重なコメント有難うございました。遅ればせながら感謝の念を伝えたく、再度投降に対しての考え方をお伝えしたく思います。
    ご指摘の点は、ほとんど私も同じように考えています。ただ、
    1)全ての外国語表記を統一することは不可能であっても、個人的にはなるべく納得できるような表記を使いたいと思います。テレビをテレヴィと書く必要はないのですが、ベートベンはやはりベートーヴェンと書きたいし、ラベルはラヴェルと書きたいと思っています。
    2)川柳のような文句に「ギョエーテとは、俺のことかとゲーテ言い」というのがありますが、明治時代の人達にはなるべく元の言葉に近い発音を書こうとする意識が強くあったと思います。マスコミを含め、現在はその意識が殆どなくなってきていることは、やはり問題だと思います。個人的でもいいからその意識は持っていたいと思っています。
    3)個人名の表記に二つの外国語名を混在佐させることに対する貴方の考えに、私も全面的に賛同します。ただ、翻訳された文章の場合、そもそも名前の呼び方が言語によって原語による呼称と異なっている場合がありますので、そういう時は名前の表記に統一するのが難しいくなる場合があります。自分が翻訳する場合はなるべくその人物に固有な言語表記を使うようにしています。
    4)もうひとつ、日本語の場合短縮形を使う場合がよく出てきますが、それに関しても自分の考え方を確定しておきたいと考えています。(井口記)

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