一昨日北陸新幹線が開通したということで、金沢駅が新たな賑いを見せている、という新聞記事やテレビのニュースが流れていた。それを見ながら、大学生の頃北陸・山陰に惹かれて旅をしたことを思い出していた。北陸線はまだ単線でで電化もしていなかった。良寛の故郷出雲崎に行き、引き返して糸魚川から北陸本線に乗り換えて富山方面に向かう。途中旧北陸線の親不知から市振の海岸までは、鉄道の路線に海岸からの水しぶきがかかるのではないかと思われるほど海に近いところを走っていた。そこで北陸に来たという感じが強くした思い出がある。小さな駅で汽車が止まり、そこで当時の社会党の江田書記長に会い、少し話をした記憶がある。社会党の全盛時代だったのだがそこで何を話したか覚えていない。夏だったのだろう白い半袖のシャツを着ており庶民的な感じがした一方、政治家としての貫禄がありまた優しい感じもした。現代の政治家には感ぜられないものだった、ように思う。お話しした駅のホームは狭く、この駅も海岸の直ぐ側あり、駅の向こうに日本海が北に向かって広がっていた。この時の日本海の風景が今でも私の北陸の印象として残っており今でも忘れがたい。

今度開通した北陸新幹線は、地図で見るとかなり内部を走っているようだ。親不知・市振の辺で、路線が海からの飛沫がかかりそうな感じはもうないだろう。実際まだ乗ってみないのでわからないが、おそらく北陸新幹線では以前のような裏日本を走っているという、当時のような淋しい感じはないに違いない。新幹線ができると、停車駅と次の停車駅の間が長くなり、それまで停車していた駅はだんだん無人駅になり寂れていく。九州新幹線でも同じような現象が起きている。高速自動車道と新幹線の両方が過疎地帯をさらに過疎化してしまうことを加速させてしまう。そこであらゆる事柄が表と裏に二分化されていくのである。そのような生活の表と裏の二分化はさらに加速していくことになるだろう。
1970年後半ごろから全国的に道路事情が変わった。村の真ん中をは通っていた昔の狭い道は旧道としてそのまま残されるが、自動車やバスは村の裏に出来た広い自動車道やバイパスを通るようになり、新しい住宅街は自動車道に接続するように作られ旧市街は忘れ去られ空洞化していく。旧街道に面していた昔からの家並は寂しく残されるが、それまでの店屋は廃業するか、新しい道路脇に移転してしまう。新しい道路わきにコンビニやさらには大型の店舗が新設される。昔の表が裏になり、新しく出来た自動車道路の方が表になっていくのである。人の流れもそれに連れて変わっていく。その傾向は日本の各地に広がっており、市でも町でも、また村でも同じ様相を呈する。裏表が逆転していくのだ。

昨日町内会の防災訓練があり、近くの公園に集まり、そこから町の小学校の校庭まで皆で歩いて行きそこで消防署の方々から避難する実地訓練を受けた。実際に震災などが起きた時役立つかは疑問だが、一見しておけば何かの役には立つのだろう。ただ気になったのは、参加者が小学生ぐらいの子どもと職場を引退した年寄りばかりで、中学生や高校生、中年の大人たちが殆どいなかったことである。そういう人たちはおそらく忙しいのだろうし、避難訓練などにはさほど興味が無いのかも知れない。若い世代の人は、現在の自分の仕事の関わりや子育てが重要なのだ。それを否定しようとは思わないし否定するつもりは全くない。ただそこに日本の現代における、少子高齢化の縮図のようなものが見えたことは確かである。良し悪しではない。そのようになりつつあるのだ。帰りにおにぎり二つとお味噌汁が振る舞われた。いわゆる炊き出しである。私は戦後の食糧難の時のことを思い出していた。当時の小学生にはまたとないご馳走の振る舞いだったと思う。時に町内会の行事に参加すると、子供の頃から今まで生きてきた道のりを思い出させてくれる。そういった意味ではいい機会でもある。
その日は往復6Kmほど歩いたことになるが、行きは皆一緒にバスの走る大通りの歩道を歩き、帰りは裏道をゆっくり歩いて帰ってきた。当時の村中の表通りが今は裏道になっていた。昔の通りは自動車が通らないところは小さく曲がっていて、曲がり角には猿田彦や庚申塚などが立ち、いかにも昔の道を歩いているという感覚がもどってくる。大きな農家の庭や納屋、石垣や白壁の蔵が残っている家もある。近くに小さな川も流れており、そこに石橋がかかっていて「中島橋、大正13年4月竣工」などと書いてある。その橋を過ぎ少し行くと、当時は村の中心だったのだろう、道から石の階段をかなり登ったところに埴安神社がある。村の氏神だったのであろう、石段を登り終えたところに大きな楠や杉の大木、銀杏の木や梅の枯木などがあり、山を背にして古い神殿が建っている。そこに住む神主はいないらしいが、山村の典型的な面影を残すこの社殿は古くからこの村の様々な行事やそれぞれの時代の歴史の流れを眺めてきたに違いない。戦争時にはここから日の丸の小旗が村民に振られ、万歳を三唱されて、若き兵士たちが出兵していったという。紀元二千六百年記念の石塔は階段の途中に健在だ。今年は戦後70年になるというが、いまこの村のかっての旧道を歩いて行くと、子供の頃に戻っていく感じがするし、さらに古の長い時間が流れたことが感取されて感慨深いものがある。また、その流れた時間による世間の動きに連れて表が裏になり、反転して裏が表になっていくのが歴史の必然性のように思えてくる。時間が静かにゆっくりと流れる、いわゆる路地裏のような場所は街だけではなく、村にもあるのだということを感じた一日だった。街道と言うにはあまりにも狭い村の道だが、その周りには古い柏原の里に漂っていたであろう村落に特有な生活の匂いがまだ残っているようだった。

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