立春を過ぎたというのに、ここ福岡柏原の地にも雪が積もった。普通なら日記に「昨夜雪が降った」とぐらい書くところだが、今は日記をつけていない。「三日坊主」と言う諺が一番当てはまるのは日記を毎日書くことだと、どこかの文芸雑誌の記事で読んだことがある。私もその例に洩れない。高校大学のころ、また中年になってからも書いていたが、何故かやめてしまい、今は時間があるのに書いていない。怠惰なのである。私の母は九十四歳まで日記をつけていた。あまり長い文章ではないが、家計簿のうえの欄にその日の出来事、家庭裁判所に出かける、とか、誰それが来客、あるいは友人に私信を書くなどと言うようなことが簡単に書いてある。時には葬式に参列した時の様子や思いを綴ってあることもある。母の日記をみると明治生まれの婦人の心意気のようなものさえ感ずる。若い頃は私情を伴った文学的な文章も書いていたようだし、兄、妹、私が大学生の頃には「息子に送金」などと小さな字で書いてあることもあった。父がなくなった後の晩年は「茶室の前の草むしり、のうぜんかずらの花がたくさん咲いている」などのような日常茶飯事や「となりの親戚から秋茄子をいただく」など、身辺に起こったことをこまめに書くようになったようだ。ただ、このような文章を短く書く時、母はどのような心境だったのだろうかと、思うことがある。夜寝る前に書いていたようだが、冬など書きながら炬燵で眠ってしまうことがある、と生前言っていた。日記には様々な体裁のものがあるのだと思う

日記は普通、母のような備忘録めいたものが多いのだろうが、他に文学としての日記がある。「日記文学」というジャンルを設定することも出来る。多くの作家たちは日記を書いているからである。その事実は外国でも変わりがない。洋の何処かを問わず、文学者の個人全集の後の方の巻に手紙と日記は別巻のような形で入っていることがその事実を証している。日記や手紙は、その作家の作品以上に面白いものが多々ある。それは私の経験もそれを教えてくれている。日記それ自体が文学になっているものも結構多い。
日本の古典文学、特に平安時代のものに日記文学の傑作が多いこともよく知られている。紀貫之の『土佐日記』(934)が日記文学の嚆矢だと言われている。日本文学史の教科書にはそう書いてある。『蜉蝣日記』(菅原の道綱母、954-974)『和泉式部日記』(1003-1004)『紫式部日記』(1008-1010)(『更級日記』(菅原孝標女、1020)などは女手によって仮名で書かれている事もよく知られた常識である。貫之はそれを逆手にとって「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」と仮名混じり文」で綴ったのである。この時代の日記文学は、日記文だけでなく和歌が挿入されており、「歌物語」(歌日記)の体裁になっている。『土佐日記』は紀行文でもある。『源氏物語』をはじめ、日本の文学は女性の手によって書き始められたと言ってよく、世界でも希な事態だったと言っていい。考えてみれば不思議な気もする。
その女手の伝統を意識的に踏まえて、明治時代に文学を志したのが樋口一葉である。『にごりえ』『たけくらべ』『十三夜』などの小説もさることながら、16歳から亡くなる年の25歳まで書き綴られた一葉の日記は、日本文学のなかでも最上位に位置すべきものだと思う。質も量も一級だからである。読んでいて感動以上のものがあるのだ。一葉の日記には、まず文学的な表現があり、自分が経験した心情の告白的意味を持つと同時に、借金の催促に追われての質屋通いなど、経済的に女一人で一家を支えなければならなかった一葉の苦悩の表れも色濃く語られ、当時の社会の不条理に対する批判的な観点からの批評文でもあるという多様な要素が散りばめられている。小田切秀雄は、一葉の文章を「雅俗折衷の独自な文体」と言っているが、「雅俗折衷」などという表現では補いきれないものがあり、日本文学全体を見晴らしても、一葉の文章は抜きん出てすばらしく高度に美しい稀有な文章と言わざるをえない。この日記に記された文章こそまさに「樋口一葉の世界」のすべてでであるとさえ言っても過言ではあるまい。一葉研究に道を開いた和田芳恵の労作『一葉の日記』を読むと、この日記が発刊されるまでに、鴎外や露伴を始め多くの著名な人物や身近にいた齋藤緑雨、戸川秋骨、馬場孤蝶などとの交流、さらには半井桃水との情深き交際や別れ、それにまつわる様々な桎梏や嘆きの経緯があり、日記の内容にも複雑なものがあることがよく分かる。しかしまた、日常の生活が淡々と綴ってあるものも多い。そこにも一葉らしさが見え隠れし、感動的でさえある。例えば、明治24年6月の日記には、

「六日。小石川稽古なり。人々におくれて、みの子ぬしと二人手ならひする、歸路くら子ぬし我家へ來給はんとあるに、いなみかねて、ともなふ。夜八時頃歸り給ふ。頼まれたる針仕事遅くまでする。
七日。よべの殘りの仕事ども、早くよりして、十時頃出來る。それより机にむかふ。」

とある。特別なことが書いてあるわけでもない短い文章だが、これを読めば、夜遅くまで仕事をして次の朝早く起きて仕事をし、それから机に向かって文章を書くといった、当時の一葉の日常が伺えるもので、こような文章こそが一葉の生活の実を伝えており、心に残る印象を与えるのである。そこは不思議な暖かさのようなものを感じさせもする。一葉の日記の非凡なところである。こんなところにも一葉の才を感ぜざるを得ない。一葉は最後の日記に「みづの上日記」という題を付けたが、その7月22日の夜に書きかけた文章で終わっている。その前日、幸田露伴と三木竹二が「めざまし草」に投稿してくれと一葉に乞うてきたことに対する一葉の考えが、日記の最後の内容になっている。『めざまし草』は鴎外、露伴をはじめ当時の錚々たる文学者たちの集まりが編んでいる書物である。しかし一葉はそれに加入するかどうかに悩んでいる。もっと若い面々を加入させるべきで、この諸氏だけではすぐ潰れてしまうとさえ書いている。『たけくらべ』で少々名前は売れ始めたとはいえ、かの「めざまし草」をこれまで批判的に見ることの出来た一葉という人物の堂々とした態度に感服しない人はいないだろう。しかし、一葉の心境はそう単純なものではなかった。さまざまな要件が一葉に降りかかっており、それらに対処しなければならない立場に一葉は立たされていた。例えば、その前年の明治28年2月22日には「・・しばし文机に頬づえつきておもへば、誠にわれは女成けるものを、何事の思ひありとて、そはすべき事かは。・・我は女なり。いかにおもへることありとても、そは世に行ふべき事かあらぬか。」と女としてこの世間に向かって生きて行く難しさを感じ、苦慮している言葉を書き残している。にもかかわらず、自分が文学なるものに志を向けていることに対しては後に引かないと言う一葉の気概には、全てをそこにかけても悔いはない程の強いものがあったことは文章の間からはっきりと漏れてくる。自信もあったに違いない。しかし、次の年明治29年11月23日の朝早く一葉は母滝子と妹邦子(國子とも一葉は書いている)に看取られてあの世に旅立つと書きたいところだが、実は「明け方,ふと、めざめて、一葉のところへ行ってみたら、もう、死んでいた」というのが事実らしい(和田芳恵『一葉の日記』)。遺書はなかったが、死を意識した時おそらくある種の諦念のようなものはあったであろうが、それ以上に耐え難い無念さを感じていたであろうことは間違いない。天才の死とはまさにこのような形でやってくるのだ。それは悲劇でも喜劇でもない。一葉の死こそがその無念な死の原型というより外にない。実際日記全体がその道行を告げているように思えて仕方がない。それが世の常なのか、特別の例外なのか私には分からない。ただ一葉は、なにかままならぬ歴運にとり憑かれて死んでいったことをしっかりと心に刻みつけ、それを忘れる訳にはいかないことだけは念じておきたい。実際そのような人がいたのだということ、それが樋口一葉という女性であったことを。

また、一葉の日記は平安時代の歌物語の要素をもつかのように、歌が地の文章との関係で記されている。一葉は生涯に四千首を越える歌を詠んでいる歌人でもあった。その歌がまたいい。

「卯のはなのうきよの中のうれたさに
おのれ若葉のかげにこそすめ」 (『若葉かげ』(明治24年4月)
「山のはの梢あかるく成りにけり
今か出らむ秋のよの月 (『若葉かげ』 明治24年5月)
「人しらぬ花もこそさけいざさらば
なほ分け入らむはるのやま道」 (『塵中日記』 明治26年11月)
「いづくより流れきにけん櫻花
かき根の水にしばしうかべる」 (『水の上日記』 明治28年5月1日)
「里人も田に引く水のあらそはで
みちをゆずれるよと成りにけり」 (『水の上にっ記』 明治28年5月4日)

五首とも一葉の日記のなかで歌われたものである。すでにこの四年間に、一葉の孤独の質の変化が伺える。一葉は明治のはじめに小説を書くことを志したが、根に歌詠みの資質がながれていたように私には思われる。

一葉についてはまだまだ書くことはたくさんある。ここでは「一葉の日記」が一葉文学のまた一葉の思想的立場の理解に重要な役割を果たしていることの大切さを知って頂ければ、それで足りる。これからも一葉のことは事あるごとに書いていきたい。

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