最近手紙を書かなくなった。手書きで書くことは殆どなくなってしまった。手書きの手紙が来ることも少なくなった。書式による通信はほとんどメールなるものになってしまったのだ。お年寄りでコンピューターを使っていない方には今でも手で書くこともあるが、封書ではない、つまり手紙ではなく、事の内容だけを書く走り書きなようなものになってしまった。字が下手なことも手伝って、今は手紙を手書きの文字で書くことは全く希になっている。それは私だけでないらしい。現今郵便受けに投函される郵便物は、公的なお知らせや請求書、あるいは商品の宣伝ばかりになってしまった。にもかかわらず、時に手書きの手紙やハガキが入っていると嬉しくありがたいと感ずるのはなぜだろうか。

日記も今は書いていない。まさに徒然にその日のことを文章にして書き記すことはあるが、いわゆる日記ではない。以前は毎日日記なるものを書いていた時期もあったが、知らないうちにやめてしまった。意識的にではない。昔は12月になると、来年の日記帳を買うのが楽しみだった。今は手帳やカレンダーは使っているが、そこに記されている内容は、いわゆる日記のそれではない。日時を忘れないようにするためのメモに過ぎない。
私は手紙や日記を書く必要性を感じなくなってしまったのだろうか。それは私のずるい性格から来ていることはまちがいないが、何かそれだけでもなさそうである。時代による人間関係の変化が起きているからかも知れないとも思うが、手紙を書かなくなってしまったことは、何か大切なものを失ってしまったような気がしてならない。最近その変化を強く意識するようになった。

今日、古い論文の下書きを探していたら一枚のハガキと一通の手紙が一緒に出てきた。
ハガキは父母からのもので、私がこちらの海産物を送ったお礼を綴ったものだった。何故海産物を送ったのか全く覚えていない。昭和63年10月15日という消印がるのでお歳暮には早すぎるが、ハガキの内容からするとお歳暮のお礼のように書いてある。向こうは早いお歳暮だと考えたのかもしれない。よい年を迎えるようにという意の文句が最後に書いてあるところを見ると、父母はそのように理解したらしい。手紙の方は姉からのもので宛名を書いた封筒はなく、しかも手紙用の便箋にではなくわら半紙に直接書いたものだった。内容は息子(長男)が結婚するので出席してほしい、正式な招待状は後で届くと思うが、前もって知らせておきたいということが主な内容だが、その後に九州での私達の生活をいろいろと細かに案じてくれている文章だ。その姉はその後何年かして亡くなった。早い死だった。父母の死より後だったことがせめてもの幸いである。父母からのハガキと姉からの手紙を今読むと、俗な言い方だが、家族の暖かさのようなものが極く自然に近寄ってくる気がする。書いている父母や姉の親しみある吐息が聞こえてくる。やはりそこには自筆のハガキや手紙であることが大きいように思う。
人間関係の繋がりは、その表現手段に深く関わっており、お互いその関係のあり方で満足してしまう。現代「無縁社会」「独居老人」「孤独死」などという言葉が使われるようになったのは、人間関係の構造的変化にその原因があるように思われてくる。以前「鍵っ子」という言葉が流行したことがあったが、現在「鍵っ子」状態は実質少なくなったが、親子の親密な関係が戻ったわけではない。しかし私はここで、以前より家族関係が希薄になったと言いたいのではない。親が子を思い、子が親に頼るという構造自体位が変わったと言っているわけでもない。それを結ぶ手段に変化が起きているのではないか、と言っているのである。人間関係、特に家族関係においても、その関係を結ぶ手段が金銭に還元されるような、言ってみれば抽象的な関係で頻られるようになってしまったのではないか。この手段の変化が大きいように思う。のっぴきならない関係から、ある意味で自由な裕福な関係になったのではないか、と言い換えてもいい。こう言うと一見逆のように聞こえるが、のっぴきならない関係とは当本人の意志で自由にならない必然的な関係を言うとすれば、現代の家族関係は状況によって自由に変化させることのできる関係になった、ということである。親が子供の必然的な存在理由を奪ってしまったのである。その結果現代は、親と子、兄弟、姉妹の関係は血縁というのっぴきならない関係であるという意識が希薄になり、感触としては自由契約関係に近くなっているように見える。親が子供を養う義務がある、などという言い方もその現れで、養う義務、つまり食物を与え、着物を着せればそれで義務を果たしたことになる、という考え方である。親子のこのような自然関係から義務関係への変化には、関係の実体化という現象が生起している。その変化は関係の計量化という事態がともなうのであり、それが現代の親子関係を規定しているのである。扶養の義務、教育の義務などと言えば聞こえはいいが、義務という言葉を、そのような社会的文脈で使った途端、義務を遂行する手段が複数可能になり、結局最後的には金銭という手段で義務を全うすることが可能になるのである。ということは「義務のための義務」(カントの倫理あるいは古来の日本の義理人情=この二つは相反するようにも見えるが、義務ないし義理はその遂行手段によって左右されず、それ自体がそれ自体に起因しているから、手段に成り下がることなく、それ自体を遂行し守らなければならないという点でその原理は同一であると言えよう)という考え方ではなく、何らかの「手段」による義務の遂行で決着を付けていいという他律的な法的規制に道を譲ってしまったのである。ここでは詳しく論ぜられないが、親の扶養義務が公的手段による子供の扶養可能性によって代理されてよいことになり、それが正当化され、それによってその代理が正統化される社会が誕生することになる。これでいいのだろうか。これではもう「世も終わりだ」と感ずるのは私だけではないはずである。
私が父母のハガキと姉の手紙を読んで感じたのは、現代の日本の社会は、私的なものより公的なもののほうが優先され、正当性をもつ(実は逆転した)社会になってしまったということであった。純粋に私的な関係で成立すべき家族関係が、公的な手段によって代理されてしまう場合が多くなってきたという憂いのようなものを強く感じたのである。私的家族関係の中に公的な権力関係が忍び込み、家族関係を解体させ始めていると言ってもいい。しかも現代においては、公的手段などというと聞こえはいいが、結局公的手段とは、国家管理のもとで法的に正当化された税金という金銭的手段以外の何物でもない、ということに思いが至ると、耐え難いものになってくる。「公的教育」とか「公的援助」などという合言葉に翻弄され欺かれている自分がなさけなくなってくる。ただ私はここで「公的」という言葉を単純に否定的に使っているわけではないし「公的な事柄」の意味を理解していないわけではないし、同じ「公的な」という言葉でも、その言葉が使われる社会によって意味が変わってくることも知っている。また、人間の社会共同体に公的な場面や地平が必然性を持ち、社会生活にその公共性が不可欠であることを疑っているわけでもない。社会は人間にとって最も重要な生活空間であることは確かだ。それは疑いようがない。ただ、現今「公的」という言葉の内実に目を向ける時、金銭関係によって動いている、あるいは動かされている利益社会の中で使われる「公的」という言葉にある種の耐え難い欺瞞性を感じてしまうのが情けないと言っているのである。かと言って、この利益社会の中では実際、それに対抗して自分に何ができるという自信も意思も持てないとなると、なさけなさを通り越して無力感だけが襲ってくる。ただ、もし計量可能な経済的なものを最終目的とした利益共同体としての現代社会が、自ずと要請する多数性によって維持される権力を「公的」と呼んでいるとするならば、あるいはその力に支配されてしまっているとするならばますます、自然性を母体とした共同体が育む「私的」に純粋な思考と感情だけは利益集団としての現代社会の中でも生き残る可能性が残されているはずである。その無償な共同性こそが、現代社会においてかすかな希望となり得るるのではないか。せめてもこの「かすかな希望」まで捨てないよう心がけたい。そのために出来ることは、もうそう多くはない。おそらくその「かすかな希望」を保つために私達に可能なことは、「井戸端会議」的共同性を広げていく必要があり、それには他人に向けて私的な手紙を書くことぐらいしか私には出来ないような気がしてくる。こうなったら手書きでなくてもいい、メールでもいい、相手は家族や知人でなくてもいい、名前ある人なら誰宛でもいい、他人との関係を無償で保てるような私信を書くことが大切な行為になるのではないか。内容は何でもいい、自分のことでも社会のことでもいい、悲観的なことでも楽しい夢でもいい、大切なのは「私的」に心をこめて書くことなのだ。
誤解されることはないと思うが、前述したように「公共性」自体が駄目だと言っているのではない、公共性が現代の利益社会の中では明らかに「転倒」しており、その転倒した公共性が強いられ、流通してしまっているのが問題なのだ、と言っているのである。その結果、純粋に「私的」なものが転倒した「公的」なものによって逆に「エゴイズム」を助長し、「個別性」や「固有性」が「我有化」されてしまっていることが問題だといっているのである。学校における、子供を私物化してしまうような「モンスター・ピアレンツ」的発言や行為、プライベートな生活を保護するなどの名目で、古来の長屋的共同性を遮断するように建てられた現代のマンションに住む住人たちの隣人意識、共同体意識が全く欠如してしまった「隣は何をする人ぞ」関係などを例に挙げれば、ここで言う「転倒している」の意味は理解していただけると思う。さらに言えばそこで私は、どのような権力にも侵されることのない「純粋で無償な人間関係」を「私的」な関係と呼んでいるのである。私信としての手紙はここで私が言う「私的」な人間関係を保持する役割を最後的に可能にしてくれるものではないだろうか。

「日記」についてはまた新たに考えてみたい。

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