「峠を越える」という表現は、危機的状況が去リ元の状態に戻るような時に使われることがある。例えば「熱が下がったし、風邪もやっと峠を越えたようだ」というような表現は、病気の危機的状態が緩和され、以前より病状がよくなってきたという安堵感を感じさせる。峠を越えたという安堵感は、実際に峠を越えた時に実感させられる感覚でもある。また逆に「峠を越えられなかった」という時には、身体的・精神的な頼りなさを感じさせられる。そこを越えなければならない度合いによって諦めの付く場合もあるが、どうしても越えなければといような時には敗北感がつきまとうことさえあり、大きな心的打撃を受けることがある。「峠」はある目的を達成しようとするとき、行き手を阻み、あるいは拒むものの比喩にもなっている。

「峠」はいつも境界にある。峠を越えるということは、いつもその先に行く目的がある。
決まった目的がないときでも、峠の向こうになにかがあると思って峠を越えていくことは確かだ。逆に峠を越えて家に帰るというような場合でも、帰る家、つまり峠を越える目的は峠のこちら側ではなく、向こう側にある。この関係はなにか不思議な感じがする。

ドイツの詩人カール・ブッセに『山のあなた』という有名な詩がある。上田敏が『海潮音』の中に訳出したため、日本で明治以来ヴェルレーヌ『秋の日』と並んで特に愛唱されるようになった詩である。どうしてか本国ドイツでは殆ど知られていない。向こうの著者紹介のところに、カルル・ブッセは<Über den Bergen>という詩によって日本ではよく知られている、という特別な注意書きがあるほどである。戦後も落語のネタにもなったこともあって、人口に膾炙するようになった。

山のあなた カール・ブッセ、上田敏訳

山のあなたの空遠く
「幸」住むとひとのいふ。
噫、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになお遠く
「幸」住むと人のいふ。

私の中では、「峠」について思う時いつもこの詩が思い出されるのである。中里介山の『大菩薩峠』や司馬遼太郎の『峠』などの作品を思い起こす人も多いと思われるが、私の場合、峠の向こう側という地理的なものから、その向こうに未知なるもの、あるいは自分が求めているものがあるのではないか、といった憧れがあるためか、この「やまのあなたの空遠く」という句が自然と口に出てくるのである。ドイツ語の原詩の題名にも、「山の向こうに」という意味合いが強く感ぜられるのである。
アメリカの民謡で日本の教科書にも載ったことのある『峠のわが家』という歌があるが、この歌の題名は<Home on the Range>というもので、カンザス州のカーボーイが、バッファローやアンテロープと呼ばれる家畜たちが群れいる草原の中にある自分の故郷の我が家を歌った歌であり、アメリカでも多くの人の愛唱歌になっており、カンザス州の州歌にもなっているという。いい歌である。ただ、私にはこの歌には、その題名に反して峠のイメージはあまり感ぜられないのである。<Range>という言葉をここで日本語の「峠」と訳すのは言語的にも無理があるように思う。そう訳せないことも出来ないわけではないだろうが、この民謡の内容を英語で読むとなおさら「峠」という感覚から遠のいていくようにな気がする。日本語の題名「峠の我が家」は峠に自分の家があるような錯覚さえ起こさせ、言葉の組み合わせもしっくりしないように思う。峠という言葉がもつ語感や峠に対する私の一人よがりな思い込みのせいかもしれないが、ブッセの詩「山のあなた」のほうが、峠を直接歌った詩ではないにもかかわらず、どうしてか私には峠という言葉やその場所あるいはそこに広がる風景を想起させ、さらにはまたこの詩の内容さえも「峠」というトポス(場所・主題)にふさわしく感ぜられのである。

先日、大牟田市在住の画家高田青治さんの個展が福岡の画廊であり、気に入った作品が二点あった。その一点が、道が岡の上に向かって描かれ、その向こうは空であり、他に何もない単純な構図のパステル画だった。題名は「景」とあった。帰り際になって高田さんに、今回の作品はいかがでしたかと聞かれたので、この作品に誰も買い手がいなかったら、私の手元に来るようにして下さい、と言って別れた。展覧会が終わってから高田さんから手紙が届き、その絵に買い手がつかなかった、という返事だった。他の作品もよかったが値段のこともあって「景」という作品の方を求めることにした。電話で返事をした時、この絵は「景」という題名だが、私には「峠」のように見える、と話した。私の場合、いつもそうとは言えないが自分がいいと思った作品が売れ残る場合がよくある。その時、この作品は自分のところに来る運命にあったような気がするのである。高価なものは無理だが、そういった作品は求められるものは出来るだけいただくことにしている。以前も他の池田さんという作家の作品だったが、気に入った作品はもう売れていたが、後になって、その作品の買い手が都合によって返品してきた、という知らせがあり、その作品は今「日時計の丘」の階段を降りた正面に飾ってある。『なわとび』という題名の絵で、少女がなわとびをしている姿がやさしく描かれていて、小さい作品だが心引かれる絵である。多くの人が、いい絵ですねと言ってくださって、その画家の名前を尋ねられるのだが、残念なことに池田さんは昨年急逝してしまったのである。そういう巡り合わせのようなことがあるものだと思い、その絵を見るたびにある種の因縁のようなものを感ずる。
その後、高田さんから送られてきた絵の題名が「景」から「峠」となっていた。高田さんの心遣いだった。峠へと続く道の向こうには何もなく、青い空だけがぼんやりと描かれているのがいい。小さな作品だが、構図も色も「峠」にふさわしい作品であると自分で思ってみると不思議に愛着がわいて来る。

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