川は人間の生活と密接不可分な関係にある。現代は道路のほうが重要になり、地図を見ても川は無視される傾向にあり、川の名前が書いてない地図も多い。自動車なるものが登場してきてから河川は道路に重要度を奪われてしまったのである。しかし川の重要性がなくなったわけではない。そもそも日本は海に囲まれた島国だが、海洋国ではないし、そう呼ばれることもない。日本はやはり山と川の国なのである。「山は青きふるさと、水は清きふるさと」なのである。ただ、海がそれを支えてくれているのである。その全体像を把握するまでに私は30年かかったと思っている。私は海のない、山と川だけの甲斐の国に育ったからである。小学5年生になるまで、海を見たことがなかった。テレビもなかったので海なるものを想像することさえなかった。「海は広いな大きいな、、、行ってみたいなよそのくに」と言った教科書の言葉が、まさに夢のように思われた子供時代を私達は送っていたのである。

ヨーロッパでの生活もドイツの内陸部であったこともあって、海を見る機会は殆どなかった。地中海か北海まで行かなければならないからである。ここ九州の福岡に来てから海の重要性を自覚するようになった。人には笑われるかもしれないが、少年時代に住んだ土地の記憶が無意識の底まで沈んでいるのである。川の思い出が多いのはそのためであろう。遅くは期しても、現在、山(森)、川、海の三つの関係を勉強しなおしているところである。
学生時代意図的に訪ねた、山陰・北陸地方、若狭湾や能登半島などの記憶により、 海への思いも強くなったし、エーゲ海、イオニア海、アドリア海、テレニア海、広くは地中海での経験も大きなもので、今の私の人生に大きな位置を占めるようになっている。しかし、ヨーロッパに初めて行った時、日本は島国で山がないと思っている人、逆に、大陸の内部に住む、極く普通のヨーロッパ人には未だに海を見たことのない人がいることも大きな衝撃だった。彼ら、特にご婦人方の行動範囲が狭かったということもあるが、彼らにとって海はやはり遠い存在なのだ。それは子供の頃の川の記憶から出発した私の経験の拡大した姿に似ているのだ、と今では思っている。

冬の川は、特に小川の水は水量が少ないせいか澄んでいる。底まで透けて見える。私の住んでいる福岡市南区柏原地区に、どうしたわけか羽黒神社なる神社がある。その境内にこの神社が奥羽地方の羽黒からなぜここに移ってきたのかが書いてある由緒についての説明書きが立っている。天正14年(1586)にこの地に建てられたらしいが、なぜ移ってきたのか、なぜこの地なのか、その理由はよくわからないと書いてある。なにか深い謂れがあるのかも知れないが、私の知識のないせいで、読んでもよくわからない。調べてもその理由を探すのは難しいかも知れない。その羽黒神社の鳥居の前を小川が流れている。近くの油山から流れ出して玄海に注ぐ樋井川である。福岡ドーム近くの河口になると、上流では考えられないほど広い川幅になる。水源のある油山から河口までおよそ30キロメートル程しかないと推測される短い川である。直線距離にしたら20キロ程しかないが、その間小さな支流が幾つか注いでいる。川は大地に降る雨を集めて川下に行けば行くほど大きくなるのである。当然のことだが川の土手を歩いているとそんなことには気がつかない。福岡市には西から室見川、樋井川、那珂川、宝満川などの川がほぼ並行に流れ博多湾に注ぐ。全て二級河川である。福岡市には一級河川はない。もし博多湾がなかったらそれらの川はどこかで全て合流し、一つの大きな川になるはずである。日本の川は大陸の川にくらべ比較的短いのである。大雨が降るとすぐにいわゆる鉄砲水となり河川が急激に増水し、即時に川近くの土地や住宅地まで広がる洪水が出るのもそのためである。雨水がすぐ川の保水量を越えてしまうからである。それ故時には、川底に積もった土砂を取り除く作業が必要になってくる。都市部近くの川の底上げ作業は大変な労力と時間を要する事になる。それを怠るとすぐにまた洪水がでてしまうからである。江戸時代いやそれ以前から日本では河岸の建設を含め治水監理が政治にまで及ぶ大事業だったことは間違いない。それに対して大陸の洪水は鉄砲水ではないが、雨水が低地にじわじわと増水し、近くの耕筰地をも被ってしまい、その水の引く時間が遅くて長引き、時には一週間、長い時には一月もかかる。洪水の被害の質が大きく異なるのである。

私は川に思いを馳せる事が多い。外国に行った時もいつも、都市や街を見るというより、そこを流れる川が主役だったような気がする。
私の川への思いは、小さな小川から始まる。少年時代を終戦直後に過ごしたこともあってか遊ぶおもちゃなるものはほとんどなく、せいぜいメンコかピー玉、あるいはなわ跳びぐらいだった。小学校の頃放課後に野球をしたりサッカーをして遊んだ記憶はほとんどない。せいぜいドッチボールとソフトボールぐらいで、ミットやグローヴはなく素手であった。普通は学校が終わるとよく友達の家によって帰った。その帰りに歩く道とその周りの野原が遊び場だった。今から考えても私の村は何もない平坦な田園地帯にある特色のない平凡な村だった。大きな川や土手、高い丘や森があるわけではなかった。日本のどこにでもある平凡な農村地帯である。ただ、春一面に咲く蓮華の花畑は忘れがたい美しい風景だった。そこに寝転んで空や雲を眺めた記憶はいつでも思い出せるほど鮮やかだった。
私が住んでいた集落のすぐ西側にも小川だけは流れていた。小さな子供でも軽々と飛び越えられるほど狭い小川だった。私はその川の名前を聞いたことがない。それほど小さな川だったのである。それでも、東西に続くあぜ道をつなげるために、その小川にも一枚板の橋がかかっていた。本当に一枚の木の橋だった.子供たちはその橋から、よくその小川を覗いていた。何も見えなかった。魚を見た記憶はない。だだ一度その川に入って、水底を見たことがある。深さは子供の足の膝よりも浅いほどだった。流れも緩やかだった。水の中に顔を入れて川底を見ると、上からは見えない様々なものがいることに気がついた。私にとってそれは大きな発見だった。水は透明で透き通っており川底は白い砂で、水は冷たく長く入っていられないほどだった。にもかかわらず、その小川は冬でも氷ったことがなく、寒い日でも湯気のようなものが川面の上に漂っていた。私がその小川に入ったのは夏休みだった。何の気なしに入ったのだが、その経験は今でも鮮明に残っている。先ず驚いたのは、岸の近くに生えている水芹(クレッソンのこと)の根に近いところにに透き通った小さなエビが沢山うごめいたことである。私が顔を動かすと、さっと皆どこかに身を隠してしまった。水底をよく見ると、砂が上に動いていた。量は少ないが水が湧き出ていたのである。今考えると当然なことだが、毎日見ていた変哲のない小川の底にも様々な自然の動きと生物が生息してるということが、私には大きな驚きだったのである。その一帯は湿地帯で、南アルプスなどに降る雨が一旦地下に沈み、上部は扇状地として水の少ない地形を形作り、染み込んだ水がこの辺で緩やかに湧き出しているのだという。今は甲府市の飲料水を提供する水源地帯になっている。わたしが子どもだったころは、大人の人達もそういうことは話題にしていなかったように思う。この一帯を飲料水のための水源地にするなどという発想は、いわゆる高度成長期を迎えるころのものであろう。都市近郊の農村地帯が変わりだしたのもその頃である。今は道路が走り、近くに商業モールが出来、村は市郊外の住宅街になってしまった。私に自然の驚きを与えてくれた透明で冷たい水の流れる小川はもうない。

中学までは村の中学に通っていたが、高校から甲府市北部にある高校に通うことになった。通学は自転車であった。高校まで40分ほどかかった。まだ自転車に速度変換のギア装置がついていない頃で、道も舗装されていなかった。タイヤがパンクした時など遠くにある自転車屋まで自転車を引いて行かなければならなかった。でも、それ以上に遠い右左口というところから1時間半以上かけて自転車で通っていた友人もいた。右左口は、最近良く知られるようになってきた、奔放で個性的な歌人山﨑方代の故郷である。その友人のことを思えばまだ私など近い方だったのかもしれない。朝は飯豊橋という名の橋を渡っていく近道で、帰りは少し遠いが舗装された道を千秋橋という橋を越えて帰っていた。二つの橋は甲府市の西を流れる荒川という川に架かっていた。荒川はもう少し下って行くと笛吹川に合流する。笛吹川も山裾を流れ鰍沢宿の近くで釜無川と合流し、最終的には富士川となる。昔から富士川は駿河の国から甲斐の国まで塩を運んでくる重用な役割を果たしていた川である。鰍沢宿で富士川を登ってきた船から荷揚げされた。鰍沢が南からの甲州へのあるいは北の信濃の国へ通ずる入り口だったのである。鉄道や道路が出来船運も衰退していったが、時には急流になるところもあるのによくここまで船を引き上げてきたのか、おそらく馬車が引いて来たのだろうと、富士川にそって走る身延線というローカル線の窓から眺めながら、その川の役割の大きさに気付かされる。
だが、私の記憶に残っているのは、富士川の上流になる釜無川という川の方である。釜無川とは、今考えると奇妙な名前だが、なぜそんな名前がついたのか分からないし、調べたこともない。ただ物の本によると、土地の名前は変更されることがあるが、川の名前は古代から変わらない場合が多いという。それは外国でも同じらしい。日本では市町村合併のとき土地名や町名が変わることはよくあるが、川の名前が変わることは殆どない。不思議といえば不思議である。川は土地以上に自然そのものと不即不離の関係にあるからだろう。釜無川も例外ではあるまい。私は毎年8月31日にその釜無川の土手までよく自転車で行っていた。夏休みが終わる日なので「夏とのお別れ」と自分で名づけていた。それは大学時代帰省していた頃まで続いた。釜無川の水量は少なかったが、洪水時に備えてか、土手は高く砂州の幅はかなり広かった。その釜無川の土手からの眺めは私の故郷の風景そのものだった。今でも目頭に焼き付いている。 左側の南東方向に富士山、西方向に櫛形山、その向こうに南アルプス山系、北には八ヶ岳とその裾野、その右側には秩父山脈も遠くに見えていた。山梨農林高校の横を通って釜無川に出るのだが、その途中は枯れかけたトウモロコシ畑のあぜ道だった。秋が近い気配を感じた。釜無川に架かる開国橋という橋まで行って折り返してくるのだが、ある日橋の上から河原を見たら、竹で作った背負い籠を背負った男性が浅瀬の石に引掛って横たわっていた。すでに死んでいたことは誰の目にも明らかだった。老人らしい姿だった。誤って川に落ちたのだろうと推測された。かなり上流から流されてきたようだった。橋のうえから数人の人が下を眺めていが、警察に届けようとする人はなく、その老人に近づこうとする人はだれ一人おらず、その気配さえ全くなかった。私も当時はその知恵も緊急感もなかったが、今でも忘れられない光景である。今だったら誰か携帯電話で110番に知らせたに違いない。時が流れたと言わざるをえない。私も含めそこに出くわした人たちがその老人に無関心や無慈悲だったわけではない。
表現は難しいが、河に流されてきた老人に対して何も出来ず、何もしなかったというところに、逆に自然と人間の古くからの深い関わり方があり、また人間に対する限りない哀れさを感じていたのだと思う。

それからは、川に特別関わったことはなく、川の思い出はない。大学生の頃、三鷹市牟礼というところに下宿していた頃、玉川上水の辺を散歩したぐらいだ。太宰治が入水自殺した辺のところである。私は中央線の吉祥寺駅で井の頭線に乗り換え、井の頭公園駅で下車していた。当時は吉祥寺駅南口は夜は人通りが少なく閑散としており、暗い感じのするところだった。夕方早めに帰るときはよく南口にあった古本屋に立ち寄った。それほど大きな本屋さんではなかったが、興味深い古本が結構並んでいた。そこに立ち寄った時は井の頭線にのらず歩いて帰った。一駅なのでそれほど遠くはなかった。まだ田畑の中に住宅が立ち始めた頃のことである。その辺も吉祥寺駅が2階建てになってから全く様子が変わってしまった。田畑はほとんど住宅地に変わってしまったのである。武蔵野の面影など全くなくなった。
あと川と言えば、友人が当時新大橋の近くに住んでいたので、都電か徒歩で隅田川にかかる新大橋を渡っていたが,その近くの深川木場で材木の浮かぶ運河を見たくらいで、隅田川に関する記憶も薄い。井の頭公園の近くから流れ出すという神田川の存在すら知らなかった。実際神田川の水源地が井の頭公園の池が水源地であり、中央区と台東区にかかる柳橋が神田川の最後の橋でその後すぐ隅田川に注いでいることは朝日新聞社会部の『神田川』(新潮文庫)で初めて知った。その有名な神田川にしても私は、ずっとその名前すらも知らず、南こうせつ(かぐや姫)が唄って流行した曲の「窓の下には神田川…」という唄の歌詞から憶えたような気がする。御茶ノ水駅の西側の池のように広い川も神田川の一部らしいということさえ当時は知らなかった。そもそも、私は東京では川の思い出は殆どない。郷里から中央本線で上京するときも、列車が多摩川の鉄橋を渡ると、それから新宿まで川に出会うことはないからかも知れない。日常生活ではなおさらであった。十年近く住んでいたのに、東京の地形に関することを私は殆ど知らないのである。2年ほど前NHKで「ぶらタモリ」という番組があって、なかなか面白い番組だった。東京に坂が多いことなど、文京区を歩いてみて実感した。今度は京都を舞台にしての番組になるというが、風土や歴史を含め学校の教科書に「地方史」を学ぶページを独立させて勉強する必要があると思う。北海道から沖縄まで同じ教科書というのはいかがなものか。奇妙な中央集権と「グロバリゼーション」などという流行に囚われていたら、真の「地方創生」などと言っても実を伴わない、掛け声だけが大きい上部だけの改革に終わってしまうだろう。「地方創生」ということがどういう形で、どのようなものに向かって行われなければならないか、そこを熟慮する事が大切である。その地方、その町、その村を流れる川を大切にすることが地方の生き残りのために重要な要素だと私は考えている。川が流れている限り、決してその地方は滅びることはない。そこには水があるからである。私は外国で土地の人々がいかに川を大切にしているかを学んだ。同時にそこの住民たちがそこを流れる川に愛着と誇りを持っていることの強さとその意味を深く考えさせられたのである。これから「石油」より「水」の時代がやってくることは間違いないと思う。「水は清きふるさと」を失ってはならないのだ。

私がそういった意味で川にとりつかれたのは、ドイツの語学施設であるゲーテ・インスティトゥートのあったパッサウというオーストリアとの国境の町に四ヶ月ほど住んだことがきっかけである。パッサウと言う町は、ドナウ川とスイスからながれてくるイン川が合流し、そこにバイエルンの森とチェコの間を縫って流れ出てくるイルツというちさな川が合流するところである。土地の人は「父」<Der Inn>、「母」<Die Donau>、息子(Der Irz)という三つの川の町と呼び親しんでいた。川の色が三者三様だったのがまず印象的だった。私の住まいはドナウ川近くにあったが、語学学校の建物はイン側の方にあったので毎日高い町並みを越えて通っていた。学校の下をイン川が流れ、その向こうはもうオーストリアだった。その丘の中腹にマリア・ヒルフという女子修道院の白っぽい建物がよく見えていた。
私の川の遍歴はパッサウから始まったと言っていい。三つの川が合流する地点は細長い公園の先からよく見えた。そこから流れは急に早くなり東に向かって流れていた。そこから川の名前はドナウだけになる。イン川もイルツ川もそこで名前を失い、終わりになるのだ。小さい川の宿命のようなものである。このドナウ川を下って行くとリンツ、そ先はウィーン、そこを下るとハンガリーのブダペスト。地図にはそうなっている。その先はその頃はよく分からなかった。当時はまだ冷戦時代で東の国に行くのは難しかったし,勇気がいった。それ以上にまだここパッサウの街に惹かれ他の国に行くことなど殆ど考えられもしなかった。ずっと後になってドナウエッシンゲンという町でドナウの泉と呼ばれるドナウ川の源泉を確かめ、またルーマニアとブルガリアに友人と旅した時、ドナウ川が黒海に注ぐ広い湿地帯を見たとき、これが八カ国を流れてきたあのドナウ川の終わる所かと感慨深いものがあった。そこで川も長い長い旅をしながら一生を終えるのだと思ったものだ。
当時ここに来たばかりの私は川ドナウの流れを眺めながら、これから自分はどうなるのだろうという不安と戸惑いに襲われることしきりだった。ホームシックにはかからなかったが、行くところも決まらず、大学に入って勉強を続けるということは決めていたが、それほどはっきりした具体的手段は未知数だったし、こころここに定まらずと言った心境だった。川の流れと「何処へ」という言葉が私の中でいつも結びついてくるのを強くそこで感じていた。その結びつきは今でも変わっていない。その頃はシューベルトの歌曲集『冬の旅』と『美しき水車小屋の乙女』が自然に思い出されたりしていた。未来への不安とその向こうの希望が混在している心境は、固定した既存の場所のあることの安定感より、どこに向かっているのかも不確かで不安定な感じがあって心細いが、ある種の自由と薄い希望は残っていて、安定してしまった時より何か可能性が秘められているような気がするのは、ずっと後になって分かって来たことである。

「やわらかに 柳あをめる北上の
岸辺目にみゆ
泣けとごとくに」(『一握の砂』所収)

という啄木の歌に流れている心境は、当時私がドナウの流れを見ながら感じていたものに近かったのではないかと思うようになったのもずっと後になってからである。北上川をドナウ川に置き換えてみれば、その思いは分かっていただけると思う。そういえば私がパッサウに着いたのも五月はじめごろで、木々の芽が出始めた頃であった。その時私には啄木の歌を思い出すような余裕はなかった。孤独感と不安がどうしようもない程切実だったのである。当時私はそのような不安定な心情ではあったが、それ故にであろうか、釜無川との邂逅以来、パッサウでのドナウ川に接しての「川」との再会は、その後大きな意味を私の中に植えつけてくれていたのである。
ギリシアは海の文化、ローマは陸の文化、ヨーロッパは川の文化ではないかと考えるようになったのは、私の「川を思う」心情の延長であり結果である。日本は海、山、川の文化で、中国のような大陸の文化ではないと言っていいと思う。

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