人の住む家は、そこに住む人がいなくなればその姿を変える。それは、家の中の部屋もまわりの庭も同じように変わってしまう。家はそこに住む主人の生きること自体に深く関わっているからである。と言うより、そこに住む人の生活そのものだからである。「住む」という行為は、働くとか遊ぶとかいう行為とどこか根本的に違っているように思える。どこがどう違った営みか、なかなか言い当てるのは難しいが、そこに住む主人の普段の感情がまわりの人や物との関係の中でそのつど「残っていく」ことにあるのではなかろうか。

私の父母に家は、家の横に自動車道が作られたため、家を東側に移動せざるを得なくなった。西側の庭はなくなり、家と池の位置がずれてしまった。高度成長期の頃のことだ。父母は移転を考えたようだが、家をずらしてもその場所に住むことを決断した。新しい道路が出来る前は、西側に遠くからも見えるほどに大きくなったアカシアの樹が3−4本あり、白い花の咲く頃には甘い香りが漂っていた。今はそのアカシアの樹も切られ自動車道路横の歩道になってしまった。父は道路に面した部分に高めの土壁の塀を建て新たな庭に作り変えようとした。昔のようには戻らなかったがその雰囲気は受け継がれていた。しかし、父がなくなり母が家を守るようになったが、母は必死に家とその庭を守ろうとしたようだ。大した庭ではないが、帰郷した時、廊下から見る庭には安らかな感じがあった。母も亡くなりなり、何年か空き家になっていたが、変わったのは兄が家に帰ってきてからのことだ。家も庭もそれほど変わったわけではないが、そこに流れている空気、家人が家や庭に対して持つ感情のような何かが変わってしまったのは明らかだった。世代が変わるとはこういうことかとつくづく感じた。やはり主人がいなくなってしまったのが大きいのだ。家や庭は単なる物的な入れ物でも歩きまわる土地でもない。主人の住処なのだ。他に言いようがない。代が替わると主人の住み方が変わってしまうのだ。そういう経験を私は何度もしてきた。それは外国でも全く同じだった。通った学校や、務めた職場でも同じ事が言えるだろう。もちろん長く住んでいた家と庭は特別だ。
何が変わるのだろう。私はそのことについて長いこと考え続けてきた。私は、主人のいなくなった庭は寂しくなるのだと感じていた。実際そう感ずることが何度もあったからである。その事自体間違っていないし自然なことである。しかし今は少し変わってきたところがある。主人のいなくなった庭は寂しくなるのではない。寂しさが残らないのだ、と感ずるようになった。確かに主人のいなくなった庭はどことなく寂しく見える。しかしそれは一過性のものとして消えていく。まただんだん荒れ果てて行くから寂しく感ずるのでもない。主人の感じた寂しさがそこに残っていないからそう感ずるのである。
新たに主人が来て新たな家庭がそこに始まると、活気が戻ってきて異なった感じと意味を持つようになる。それはそれで自然なことだ。しかし私は主人がいなくなった庭を忘れることが出来ない。
父がいなくなった庭は寂しかったが、すでに父の寂しさは残っていなかった。父が生きていた時は、父が感じたであろう寂しさが庭にどことなく漂っていた。世代が変わったと感ずるのは、父が感じたであろう寂しさが残っていないと感ずる時だ。「寂しい」と感ずることと「寂しさが残る」ということとは全く異なった事態なのではないか、と思うことがある。主人のいなくなった庭は「寂しい」のではない、「寂しさが残っていない」のだ。自分が単に「寂しい」と感ずる自然感情には「残る」という他者からの眼差しがない。「寂しさが残る」と感ずる時、人間は最も寂しい時であり、それに伴う愛着をも同時に感ぜられるときではなかろうか。父のいなくなった庭にはまだ「寂しさが残っていた」のだ。主人がいなくなった庭はただ悲しいだけだ。「寂しさが残っていない」からである。

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