最近新聞に様々な旅行の案内が掲載される。「一人でも参加できます」などという文句が目につく。近所の知人が、昨秋チベットに行ってきた、この夏は北欧のノルウェイに行く予定だとおっしゃっていた。一人でもそういった旅行ツアーに参加しているのだと言う。確かにその広告を読むと、言語が出来なくても案内人が付き添っており、ホテルも決まっているし、その土地で見るべき場所や建造物の見学は要領よく回ってくれるという。一人旅より安全で、低価格で旅行できることは確かである。一度も足を踏み入れたことのない地域、例えば南米やアフリカ諸国などに行こうとしたらそういう団体旅行も意味があると思うし、初めての旅行なら特に安全性の面からも勧められるだろう。外国に住んでいた時、私も何度かそういったツアーに参加したこともある。
ただ今日ここで少し考えてみたいのは、旅行といえば「何々を見たてきた」というように、名所旧跡を「見る」ことが目的になっていることである。これはこれで目的も意味もあるのでそれで十分とも言える。だが、これまで様々な旅をしてきて感ずることは、名所旧跡を回ることだけが旅ではないということである。偶然訪れた町や村、そこに泊まった古い宿、偶々出遭い言葉を交わし、帰り際に土地の言葉で「サヨナラ」を言いながら手を振り続けてくれた見知らぬ人達、通り抜けた街道やそれに沿って流れる川やそこに架かる橋など忘れられない物や出来事が旅にはある。それは外国を旅していても同じだ。道に迷い、次の街に行く方向を尋ねた時親切に身振り手振りで教えてくれた老人やふと立ち寄ったカフェーで帰りがけに「有難う、お元気で」などと明るく言ってくれた女性の姿。見知らぬ場所での見知らぬ人びととの「出会いと別れ」はどこでも同じような感慨をお互い持つのものである。この言いしれぬ懐かしさは旅をしないと味わえない感覚である。これは私の旅しての感想であり確信でもある。予期しない出来事や忘れがたい人との出会い、そのような偶然の楽しみために旅をしていると言っても過言ではない。しかし旅には危険性もつき纏うし、やりきれない淋しさがやってくなることもある。特に一人旅の場合そういった気分になることがしばしばある。にもかかわらず、旅に出たくなるのは何故だろうか。旅には計り知れない無意識的な憧れのようなものがあるからだが、普段は感じない苦労もある。昔から「可愛い子には旅をさせよ」「旅は道連れ世は情け」と言った諺があるし、逆に「旅の恥は掻き捨て」と言った行動を取らざるを得ない時もある。そもそも「人生とは旅である」とも言われるように、旅は多様な出来事の連鎖でありそのの総括のようなところがある。

今回は旅一般でも名所旧跡を見て回る旅ではなく、唄と踊りに出会う旅について書いてみたい。見るだけでなく実際に耳で聞くこともある旅である。しかも普通は聞くことのない、あるいは聞いたことのない音樂や踊りに出会う旅について考えてみたい。
世界にはいわゆる「音楽祭」と呼ばれる催しも各国にある。「ザルツブルク音楽祭」「バイロイト音楽祭」「エクス=エン=プロヴァンス音楽祭」「ジュネーヴ音楽祭」「ブサンソン音楽祭」「プラド−カサルス音楽祭」「ドナウエッシンゲン現代音楽祭」などなどどこにも音楽祭はある。世界的に著名なものから田舎の小さな町にまである。ロシアのペテルスブルクやキエフ、スイスのロザンヌ、ドイツのシュトットガルトやミュン匕ェン、カナダのモントリオールなどはバレーで著名な都市である。それらヨーロッパの大都市で開催される音樂や踊りは主にクラッシク音樂やバレーが中心で、そのためのツアーも企画されファンも結構いる。先日、この連休にハイドン、ベートーヴェン、シューベルトやシュトラウスの音楽を聞きにウィーンに行くという友人がいた。確かにこれも音樂を聞きに行く旅だし、スイスのロザンヌはオードリー・ヘップバーンやチャールス・チャップリンが晩年を過ごした静養地でもあり、バレーを見てから、高台から夕暮れのレマン湖を見るのもいい旅と言えよう。実際そこでしか見られず聞くことの出来ない旅もたしかにあるし、そういった経験もオーソドックスな旅の結果である。
ただ私がここで書きたいのは、そういった著名の場所での音樂やバレーのステージについてではない。見知らぬ街や村、あるいは偶々出くわした街の広場で行われているその土地の人達が唄い踊る唄や踊りについてあり、そこに広がる何とも言えない情緒と懐かしさについてである。子供の頃村の神社の夏祭りに、屋台が道の両側に店を並ていたり、時には田舎回りの曲芸師や劇団の芝居小屋で昔気質の芝居をやったり、「寄ってくれてふ、見てくれてふ、ろくろっ首の女だよ」などと呼び込みがあるテントがあったり、盆踊りの列が連なったり、子供ながらに浮き浮きしたり怖がったりした思い出が蘇ってきたりすることに似た場面に、旅をしていると外国の見知らぬ土地でも出会うことがある。その広場に繰り広げられる催し、そこで唄われ、そこで踊られる音樂や踊りは、普段聞くことのないどこか特殊に異郷的であり馴染みがないところもあるが、それ故にか逆になぜか懐かしく楽しいのである。そこで売っている食べ物も、レストランにあるものとは異なり、昔はこんなものを食べていたのかと言った興味も湧いてくる。旅でしか出会わない味であり、また出会えない食卓の光景である。その時自分が日本人であることを強く感じながら、そこの土地の人達も同じ人間存在であり、喜びや悲しみという、日常の苦労や快楽を共有しているという実感が迫ってくる。この情感を同時に感ぜられのは、やはり旅においてだからであろう。そこで感ぜられるものは「文学」とか「音樂」とかいう概念を取り払い、直に感ぜられる人間の情感であり異質であると同時に共有できる普遍的なもののように感ぜられる。そもそも村の祭りのような場所で行われる伝統的な行事には「善悪」「正偽」「強弱」などの区別がなく「享楽」や「淫乱」をさえ共有し許されることがあるのである。ただ、場所と時間に制限があるだけである。「今晩ここでだけ」と言った制約はあるが、他の様々な制約は破棄されてしまう。古くからの「為來り」が残され行われるのである。現代のように国家が引率して行う「法律」やその「制約」の概念が違うのである。古代から引き継がれている「祭儀」や、古い為来りで行われる「ファスナハト」や「カーニバル=謝肉祭」、その末端で行われるそれぞれの地域に固有な「村の祭り」などには、今でもその名残が引き継がれている場合が多いのである。そもそも現代と「法概念」や「常識」に対する意識が違うのである。そこが面白い。現代問題になっている「セクハラやパワハラ」などという概念がいかに近代的な狭い考え方や行動様式に起因しているものか分かるというものである。「今ここで」が許される村祭などに出会い、そこでの「唄や踊り」それに続く行事などに出くわすことが出来るのも旅ならではの利点であるし、楽しみである。旅は「自由になれる」からではなく、日常生活の常識から解放される感覚がいいのである。それが反転し、痛むこころが露出してくることもある。だからこそ旅で出会う人達の「唄と踊り」が特別な慰めになるのである。旅に古い新しいはない。現在旅先で経験する唄も踊りも、古い時代に読まれた歌にも哀感が漂っているからであろう。

有馬皇子、みずから痛みて松が枝を結ぶ歌二首
「磐白の濱松が枝を引き結びまさきくあらばまたかへり見む」
「家にあれば笥に盛る飯を、くさまくら旅にしあらば椎の葉に盛る」(『万葉集』巻二)

この歌二首は「挽歌」である。旅の歌は自然と挽歌になるのだ。

One Thought on “旅で出会う唄と踊りの楽しさと哀しさ

  1. 宗像 眞次郎 on 2018年5月8日 at 3:43 AM said:

    旅というのは、そういうものなんだろうな、とわたしも思います。
    名所旧跡を効率よく巡るツアーは、どこか、「よそ行きの顔」をしたひととうわべだけのやり取りをする、といったことと類似の、旅行先について疑似的な理解に陥る危険が否定できないと思います。
    それでも、わたしのように国内から一歩も出たくない、異国で違う風俗・習慣に触れるのは面倒だ、と思うような人間よりは見聞が広まるのも確かでしょう。
    こういう文を読むと、じぶんのものぐささを反省させられます(笑)
    ところで、セクハラ・パワハラ云々ですが・・・
    サラリーマンを何十年もやると、たしかに今でいうパワハラ的な言動を常にする上司が少なくなかったのは間違いないと思います。やっかいなのは、被害を受けた側が、たとえどれほど理不尽な攻撃をされても、「(上司が)あれだけきつく言う、ということはそれだけわたしが至らないから、考えや取り組み姿勢が甘いから、かもしれない」とどうしても思わざるを得ない。だから、上司としての必要な指導とパワハラの境目がわからなくなってしまう。
    そういう点では、パワハラを撲滅する、という方向で世のなかが動き、この問題に世間の関心が向くのは悪いことではないと思います。
    セクハラというのは、これはもっと複雑だと思います。
    そもそも、女性の側も、ひとと接してそのひとからなにか(商品の発注・情報等)を得ようとするに際し、女性であることを生かそうとする(それ自体はなんの問題もない)。
    それに「悪乗り」する男性がセクハラだとして非難されるのだが、そこで非難されるのは、多くの場合、その男性が女性の側にとって「価値がない」と見なされたときだけである。
    それに、そのことをたとえば政争の具にしたい勢力など、第三者が正義ヅラして登場することで、ことの真実は横に置いて扇情的な世論誘導が行われる。
    こういうのはあまり見ていて愉快なものではない。セクハラ行為そのもの(そういわれる行為の内実は多くの場合当事者しか知りえない)でなく、世間の騒ぎ方についてですが。

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