現今の都市はビルやマンションが立ち並び、それが郊外へと広がりつつある。この現象は大都市に限ったことではない。70年代ごろ「庭付き一戸建ての家」に住みたい、という意識が広がった。郊外に住宅のための土地が造成され、いわゆる「団地」なるものが増設されたのもこのころである。都市の中心は土地の値段が高いから、畢竟、郊外に移り住むことになるのである。そうなると当然、通勤に時間がかかる。90年代に入って、遠くの一戸建てより近くのマンション、という意識が芽生え、現代はその考え方が主流だ。自分たちの生活はマンション、ときどき祖父母の家に遊びにいけばいい。戸締りも鍵一つですべて片付く。掃除も楽だし、買い物も便利だ、ということらしい。老人たちも、田舎の家を手放して、都市型の老人施設に住む人が増えているという。この反転現象の原因は、日本が「少子高齢化社会」になったことにあり、それが最近さらに加速されていることにあることは間違いない。

 私はこのような現象に異議を唱えたりする気はない。世相は変わっていくものだからである。
ただ、気になるのは子供の成長過程で「偶然性」が極力排除され、すべてが親の意識に合わせて処理されてしまうことである。「想定外」などという言葉があるが、実はこれも「意識の内部」で処理してしまう、つまり、すべて結果として意識的に処理できるという考えの現れである。そこにはすべてを「想定内」に収めたいという願望意識がある。つまり「偶然性の排除」である。ここが本当は問題なのだ。
 この現象は、ここでの話の続きからすれば、「路地裏」なる場所がなくなり「路地裏的なもの」に触れ、物事の裏側の世界を経験する機会を失ってしまった、と言い換えてもいい。子供たちが最近「かくれんぼ」なる遊びをしなくなった。隠れる場所がないからである。子供たちは、四六時中親や教師から見張られ管理されているのだ。遊びさえ制限され、危険のない、すべてプログラム化された遊びだけが許される。ゲーム機に熱中するのもそのように仕向けられ、そのような経過と結果にしか喜びが感じられなくなってしまっているからである。
「路地裏」は、想定外でも想定内でもない、まさに偶然的な出来事の生起する場所である。希望が残されているとすれば、子供たちは大人の意に反して「路地裏」を探し、「路地裏的なもの」の経験に喜びを感ずるものだという、歴史的に継承されてきた、普遍的「子供の領分」は消えはしないということである。都市空間が、また住居空間がいかに変化しても、「路地裏」はどこかに存在するし、「新しい路地裏」が子供たちを待っているに違いないからである。
 路地裏は自分の「秘密」を発見する場所である。「孤独」と言い換えてもいい。そういった意味では、孤独は自分一人で引き受けなければならないが、それゆえに自分が自立する根拠となるのである。隠された秘密としての孤独は、人間の生存の絶対条件なのである。路地裏はそれを育て経験させてくれる唯一の場所と言ってもいい。ということは、いかなる世界がやってこようとも、人間が存在する限り、路地裏は存在し続けるだろう。自然災害によっても戦争のような人災によっても人間が人間として滅びることはない。人間が人間として終末を迎えるだけである。しかし、路地裏が無くなってしまったとき、人間存在は生きながらして終焉するのである。それはそんなに遠いことではないかも知れない。路地裏を歩くとは、人間存在の条件を「追想する」ことなのである。

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