先日「雨が降らない、なぜ?」を書いたばかりだったのに、このところ福岡朝倉市、大分日田市、愛知県犬山市周辺で局地的(局所的)豪雨が長く降り続いた。豪雨は以前もあったが,その降り方が特殊だったらしい。普通の域を超えていたらしい。しかも、これまで一度も起こらなかった山崩れが(がけ崩れではない)起こった。砂混じりの土砂が樹木を同時に押し流し、その大木が川をせき止め湖のように広く水嵩が増し、山間集落を孤立させたところさえ出てきた。
今回の豪雨の特色は、雨雲が高いところまで居座っていて、一旦止んだ雨が、下がってきた雨雲が同じ場所に何度も降り続けるということだったらしい。専門家でないから詳細は分からないが、狭い土地に局地的に長く降り、その量が記録的な量になったことらしい。これは新しい現象だという。
このような現象が長く続くと、雨の少ない地域と豪雨になる地域とが分裂してくる可能性がある。天気予報も九州北部とか南部とかではその予報が全く意味をなさない。私が子供だった頃、ラジオ(今はテレヴィ)の予報はあまり意味がない、自分で、自分の家から見える西の空の雲の様子を観察するしかない、と農家のおじさんが昔子供の頃言っていたのを思い出した。それが極端になってきたのだろうか。
また一方では雨特に梅雨の雨は、当時はしとしとと降っていた。少なくともそのように感じていたように見える。大雨・洪水・台風などはあったが、その影響が「局地的」になってきたのが現今の特徴である。
以前は、

「雨が降ります 雨が降る
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒のかっこの 緒が切れた」

「あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
チャップチャップ チャップチャップ
ランランラン」

このような童謡に歌われた雨には、局所的な豪雨の感じはない。親しみさえ感じさせる。
やはり時代とともに雨の降り方が変わってきたとしか思えない。今年の7月の集中豪雨はその傾向をはっきり
示してきているように思えて仕方がない。
自然も変化するのだ。ただ、昔から雨がふらず日照り続きで「雨乞い」をする習慣は各地にいくらもあった。そのお陰で久々に降る雨を「喜雨」とか「慈雨」とか言って喜んだ。俳句では七月、夏の季語である。私が無知なせいかもしれませんが、今度の豪雨のような雨はあまり歌や俳句には詠まれていないように思う。
芭蕉の『おくの細道』の中に、
「五月雨を 集めてはやし 最上川」
という有名な句があるが、最初は「五月雨を 集めて涼し 最上川」となっていたと言うから、この句にも川が増水し土手が氾濫すると言った雰囲気はない。日本の詩歌に特質的な文学的な描写だからそうなるのだろうか。
今度の豪雨はその文学的表現を遥かに凌駕し、自然の脅威を新たな形で意識させられた。自然の変移に良し悪しはないにしても、今「なぜ?」という疑問は残る。自然を甘く見てはならないと、感ずるこの頃である。

One Thought on “局地的豪雨、なぜ?

  1. 宗像 眞次郎 on 2017年7月16日 at 6:04 PM said:

    さいきんの異常気象はおそらく地球温暖化と無関係ではないと思います。

    といっても、それ自体はわたしは専門じゃないんで、断言はできませんが、そういうことより、私たちの生活の仕方が環境におおきな負荷をかけてきている、というのは間違いないようだし、より深刻なのは、そのことにひとびとが無頓着になっていることだと思います。
    温暖化の弊害を強調するのは原発を推進したい勢力の陰謀だ、といわんばかりの乱暴な言説もある。それの是非もわたしはわからないが、ひとびとは、いろんな事象を、自分に都合のいいように解釈して利用しようとすることにばかりあたまを使っているように見える。
    基本的に、自己中心的かつ近視眼的な発想しかしなくなっている。

    これは、ツイッターやラインの「短い文章」「単語の羅列」「縮めコトバ」で意思を通わせる風潮とどこかでつながっているのではないか、そんな気もしています。

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