梅雨の季節なのに、雨が降らない。福岡背振山系の北側、この辺としてはめずらしい現象ではないか、これは何か大きな変化の前兆のように思えてくる。近くの溜池は底が透いて見えるほどに水が少なくなりつつある。三十年ほどここに住むが、初めての経験のような気がする。田植えの季節なので水が減るのは仕方がないが、これほど減るのは稀である。こことは逆に、鹿児島、沖縄など南の方は雨が多く、川の水が増水し氾濫状態になっているところもある。雨のよく降るところと少ないところが極端になってきている感がある。砂漠化と洪水が同居するようになってきた。やはり日本も、温暖化を伴う亜熱帯化が進んでいるのだろうか。確かに渇水や増水は何時の時代にもあった。それは確かだ。しかし、最近それは歴史上類を見ない現象、あるいはその予兆のような錯覚を起こさせるのは何故だろうか。あるいはそんな感じを持つのは私だけではないような気がする。特に若い人より年寄りのほうが天候に敏感に反応するようだ。天気予報ではない、実際の降雨に対してである。また都会に住む人より、地方に住む人のほうが天候が気になるものである。雨が降らないのが深刻なのは、地方のほうだからである。水道が来ていれば「飲水」には困らず、生活に直接関わらないからだ。しかし、実はそこが、最も肝心なところであり、重要な観点なのである。生活環境が現実から離れ、生活が抽象的に成立するようになって来たからである。

また、その予兆が自然だけでなく人間の社会全体にまで及んでくることさえ考えられるからである。現在の社会は、どちらの方向に向かっているのか見当がつかなくなり、誰にもその全体の動きが把握できなくなってきている。それは日本だけではなく世界全体が混沌とした部分を露呈し始めているのかも知れない。以前から「遺伝子操作、ナノテクノロジー、先端科学技術」について生命倫理学などの分野で警鐘が鳴らされては来た。しかし現実は知識人や科学者の発言以上にその進歩のスピードは早く、深刻さを増してきている。人工知能が予想以上に早く動き出して、その驚きの成果を現実に示しはじめているのもその一つの表れだろう。チェスや、将棋、最近は囲碁の勝負もこのままでは人間は勝てないことが分かってきた。それがあらゆる分野に浸透し始めている。その変化の速度に意識がついていけないのである。かのピノキオがゼベット爺さんを困らせたように、人間これから何をやったらいいのか、その変化が不安にさえなっ来たのである。その無意識的な不安を払拭でもするかのように、メディアによる奇妙な流行が盛んだ。生活から現実性がなくなってしまった結果であり、しかもそれがそうさせられてしまっているところにが問題であり、その結果まさにどうしたらいいのか分からなくなってしまったのである。ゼベット爺さんはピノキオの動作の動きと速度に戸惑っている自分に自覚的になれたが、現代の我々は、その自覚さえ奪われてしまっているのではないだろうか。それ故、そう言った変化に伴い、これまでの位置関係や価値観の変化が、しかもその質の変化が我々には読めなくなってなって来ているのである。それはもしかしたら、世界史的にまだ経験したことのない事実に遭遇し始め、まさに世紀の大転換期に差し掛かっているのかもしれない。しかしここではそんな大袈裟なことを言いたいわけではない。私がここで言いたいことは、雨が降らない、水不足になる、農家は困る、ということもさることながら、水という物質、昔から生命の水と呼ばれてきた水が抽象化された情報に取って代わろうとしていることが問題なのだ、ということである。逆に言えば、抽象化された飲み物さえあれば、雨など降らなくてもいいということになるのである。「水などいらないよ、コカコーラがあれば」と言った子どものように。

最近重要だと思うことは、雨が降らない、水不足になったら困るなあ!と言った素朴な疑問が大切なのではないかということである。そこが人間存在の最も基本的なことだからである。そこを忘れてはならない。知識人や専門家、ましてや政治家や経済学者、あるいは科学者の判断に任せられないのが人間のむずかしいところなのだ。そういう知識や情報ではなく、「水」そのものの存在が忘れ去られることが実は問題なのである。『裸の王様』の話は示唆的だというべきだろう。王様が裸であることを子どものように素朴に感じ「あの王様は裸だ」と素直に言える事が重要なのである。
その辺のところの素朴な疑問を、現代社会においては情報操作によって消し去ってしまっていないだろうか。生活にとっては天気予報が問題ではなく、実際雨が降るか降らないかが問題であり現実なのであるから。

One Thought on “雨が降らない、どうして?ー素朴な疑問が今重要なのである。

  1. 宗像 眞次郎 on 2017年6月18日 at 9:53 PM said:

    現実が現実でなく、ただの知識・情報になってしまっている、すくなくとも現実を皮膚感覚で受け止めることをいつのまにか止めてしまっている、というのはすごく思います。
    世界を見れば、ISの蛮行、テロの脅威、北朝鮮の核・ミサイル開発、近隣の某大国の苛烈な人権弾圧・少数民族迫害等々、どれひとつとってもきわめて深刻な事象のはずなんだけれど、わたしたちの普段の受け止め方はどこか他人事、単なるニュースに過ぎなくなってしまっている。
    これについては、あまり言いすぎるといろんな「差し障り」もあるので控えますが、「雨が少ない」ということをただの「気象統計」上の知識として扱うのではなく、じぶんもその一部である自然の営みの異変と感じる感覚は、いろんなものごとと自分はどう対峙していくか、自分の「立ち位置」をどのように変えていくべきか、ということを誤りなく判断するための第一歩に違いない、と思料されます。

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