新緑が美しい季節だ。周りの樹木や花を見、山や空を眺めながら私たちは何を感じ、何を授受しているのだろうか。

私たちは普通、触覚、臭覚、味覚、聴覚、視覚の五つを俗に五感と呼んでいる。それは人間が外界と接する身体器官と関係づけて名付けられたものであり、肌、鼻、舌、耳、眼の五つの身体器官にその役割が与えられているというのである。この分類は、古典ギリシア後期のアリストテレスの考え方に従ったものと言われているが、今ではそれが全世界に普及してしまった。私は知識がないので分からないが、エジプトやインド、古代中国などではどんな分類、あるいは考え方をしていたのであるか気になるところである。それ以上に関心があるのは、日本の古代からの習慣や考えでは、いわゆる五感についてどのような事が言われてきたのだろうか、ということである。ただそういった知識を知るにはどうしたら良いかが分からないのである。どういう書物を読んだらいいのであろうか、よくわからない。
ただ言えることは、五感、つまり五つの感覚器官を通して感ずる感じ方は、独立したものではなく、相互に関係し合いながら感じあっているのではないかということである。あるいは、それらの関係によって新たな総合的な感覚を享受していると言えるからである。例えば、「暑い」という感覚は触覚だけを使って感ずるものではなさそうだし、「痛い」という感覚になればなおさらで、単なる五感だけが受けて取ったものではなさそうだ。それに人間の場合五感だけでなく、それに言葉なるものがいつもついて回るから厄介になる。例えば「重い−軽い」「大きい−小さい」「深い−浅い」など普段よく感ずる事態について考えてみても、感覚と言語が一体になっているように感ずる。「楽しい」「美しい」「気持ちがいい」などになるとさらに複雑な関係が相互に交差しながら形成されているように思える。

このような常識的なことを書くのは、最近今まで蓄積されてきた知識や、記憶の残滓の堆積が何かあやふやなもののなってきたように思えてしまうからである。常識的なことはそのまま残っていて、不自由することはないのであるが、あることをとことん追求したり、最期まで知ろうとすると逆に分からなくなってくるのである。例えば、先程から問題にしている「五感」に関しても、古代人達は現在私たちが「美しい」などと言っている事態を看取していたのだろうか。何を見て、あるいは何を聞いてそう感じていたのだろうか。花を眼で見て本当に「美しい」と思い、鳥のさえずりを耳で聞いて、本当に「快よい」と感じたのだろうか。疑問が残る。それを確かめる手段がないからである。ただ現在私たちがそのように判断していることから、古代人も何らかの判断をしていたに違いないと、推測しているにすぎないような気がする。

この問題を突き詰めていくと、私たちが一番厄介な決断を迫られる「好き−嫌い」という相反した判断に悩まされているからのように思えてくる。そもそも「好き−嫌い」の判断は「五感」と関係があるのだろうか。一見深い関係にありそうだが、その関係はどうも直接には関係ないようにも思える。ということは、その判断はいわゆる人間が所持している身体器官によるものではない、ということになる。とすると、身体器官が壊れるほどの衝撃に見舞われないない限り五感を前提しながらも、その判断は五感から直接出来するものではないことになる。
五感に直接接続していないとすると「好き−嫌い」の判断は何がどこで決定しているのだろうか。よく人は「好きー嫌い」に理由はないというし、昔からそう言われてきた。その判断には客観的理由がなく、生物学的遺伝にも関係していないとすると、幼児期からの体験の積み重ねがそれを決定するのだろうか。それにしても、その判断が非常に個人的なものに思えるのはなぜだろうか。
私のこれまでの知識によると「好き−嫌い」の判断の不思議さと難しさをとことん考え、理論や作品にまで言及し具体的に現実化させたのは、向こうではカントとフロイトであり、日本では紫式部、小堀遠州、それに本居宣長だったように思う。
この問題は特殊な事情を孕んでいるし、難しい面が表面化してくるので、改めて具体的に書いてみたい。

One Thought on “五感について、あるいは「好きー嫌い」について

  1. 宗像 眞次郎 on 2017年6月1日 at 7:04 AM said:

    おはようございます。
    わたしは好き嫌いが激しいタイプなのでじぶんでもその意味するところ、好きとか嫌いとかいう感覚がどこからでてくるのか?というのはよく思います。
    言われるように、これは五感とは関係ないと思います。五感は好き嫌いを判断するための情報入手経路になっているにすぎない。
    わたしが思うには、好き嫌いの感情はそのひとの美学からくるのではないか。
    ひとは自分のことについて、正確には把握できないながらもいろいろと意識する。こういうところは自分の優れているところ、と思ったり(これはうぬぼれと片づけるのは適切ぢゃないと思います。自己肯定はそういうところから来るのだから)、ぎゃくにこういうところはよくないんだよな、なかなか治らないけれど、と密かに気に病んでいたり・・・
    そういう、じぶんの「よくないところ」とよく似た行動パターンをしているひとを見た時、まるでじぶんの欠点を拡大鏡で見せつけられているかのような感覚になり強烈な違和感を覚える・・・「嫌いだ」という感覚はそういうときに起こるのではないかな、と思います。ひとつの例ですが。
    「好き」という感情もにたようなところがあるのではないでしょうか。美しい女性を見て嫌いだ、という男性はたぶんいない(性格うんぬんはまたべつのハナシ)。女性のような美しさは男性は絶対手に入れることはできないから、素直に讃える気持ちになれる。いっぽう、きくところによれば、女の人は、同性のファッションとかヘスタイルとか化粧ののり、といったことにはけっこうシビアだそう。
    そんなことを縷々考えていると、好き嫌いが激しい、というのも、そんなに悪くないかな?素直な性格の表れなのかな?とも思ったりしています。

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