山に登るとよく言う。それほど真剣に調べたことはないが「山登り」という言い方は、そんなに古い言い方ではないと思う。そもそも、何かの用事がなければ山の中まで行くことはなかったようだ。植林などという考えも古代のものとは思えない。住居事情が変化して来たこともあってか、必要があれば樹木を伐採して建築物に使用したことはあっただろうが、それほど頻繁に行われていたとは考えにくい。炭焼の技法は古くからあったようだが、産業にまでは発展しなかった。山に楽しむために登るなどという発想さえなかったのである。ましてやレジャーとしての山登りは近代の産物であることは間違いない。冬に山で仕事をしていて雪崩に遭遇することはあったかもしれないが、希だったと思う。昔の人は山は怖いものという意識があったからだ。最近登山家と自他する人達が雪崩に巻き込まれ、警察に救助を要請したりしている。その危険を感ぜずに登山をするなどというのは山を甘く見ている証拠で、許せない感じがする。そこまでいくと、雪崩による死亡事故は自然災害によるものではなく、人身事故としか言いようがない。山登りの遭難が近・源代人のおごりであることは言を待たない。山は生活に必要不可欠のものだけを産出するためのものであって、遊びがてらに使用するものではない。それにはそれなりの覚悟を持つべきだろう。山は人事を超えたところがあり、恐れおののく対象であった。その歴史的事実を忘れてはならないだろう。

確かに人間の欲望は危険を犯してまで実行する、と言った意味合いはある。それを全く否定しようというわけではないが、自然の脅威は宗教的祈りの裏側にあって、人間が生存するためのもっとも重要な先見事項であると思う。その証拠に登山をする人は実は都会人が多く、山に住む山人や里に住む里人たちには、むやみに山に登ることなど無縁の存在だったのだ。
私は山に登ることはめったにないし、登山とか山岳などという言葉は初めから馴染みがなかった。ただ遠くから四季折々の山々の姿を眺めるのは好きだった。いつも眺めていた山に親しみもあった。今になってもその感じは変わることはない。目をつむるとふるさとの山の遠望する姿が蘇ってくる。この山を見て美しいなどと感ずる感覚も近代以後のものかもしれない。そもそも山は崇拝の対象であり、森は深遠な聖なる空間だったのだ。
万葉集などを読むと「あしひきの山、、、」には、憧れや魅力を感じながらも、まだ、何かを隠し、何かを遠ざけ、何かを分け隔てるような拒絶感さえが感ぜられ、人の感情が簡単には届かない奥深さ、どこか怖さを感じさせる場所というイメージが付き纏っている。万葉集の場合、名前が知られず親しみのない山々には特にその意識が感ぜられる。啄木の「ふるさとの山に向かひて、言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな」と言った歌になると、山が身近で親しくなり、近代的な感覚が感ぜられるようになる。しかし、啄木の歌からは近親感はあっても「登山」つまり高いところに登る山という遊びの感覚は感ぜられない。啄木にはまだ好んで山に登る、いわゆる「登山」などと言った積極的な意識はなかったのではないだろうか。啄木には、山は有難いところであっても、勝手に楽しく遊ぶところではなかったのでる。

私は回りを高い山に囲まれた甲府盆地の真ん中に少・青年期を過ごした。「甲斐の国み中に立ちて、、、」と高校では校歌でも歌っていたが、近くには山はなく、盆地の底から山を遠くに見ながら育った。山は遠望するもので登るものという意識はほとんどなかった。例えば、富士山は家の窓から南方によく見えていたのに頂上まで登ったことがない。南アルプス連山は西の方向に高く長くそびえ、頂上付近には夏でも白く雪が残っていたように見え、その遠望の美しさは格別だったし、富士山に次ぐ高い北岳も見えていたが、頂上まで登ったことはない。中学生の頃土地の小父さんに連れられて、イワナ釣りに中腹付近まで一度登ったことがあっただけだ。その頃私はヤマメとイワナの区別がつかなかった。イワナが素人の僕でもミミズをえさにして、小さな流れの石の下で面白いように釣れた。現在はそう簡単に釣れないらしい。なぜだろうか。その時は本当によく釣れた。昼それを川岸で焼いて食べた。北岳に登るなどという意識はなく、小父さんに連れられて釣りに行っただけのことだった。履いていたものは毎日普通に学校で履いていた普通のズック靴だった。夏だったが上は半袖シャツ一枚だった。北岳に登るときの服装としては、今では考えられないものだった。そもそも当時は、山に登るなどという意識はまったくなかったように思う。でも地図で見るとかなり高いところまで登ったようだ。あの北岳に釣りに連れて行って下さった小父さんは、それ以来お会いしたことがない。昔気質のやさしい小父さんだった。山が何であるかがよく分かっていた人のように今では思えてくる。決して無理はしなかったと思う。
また家から北の方角には八ヶ岳連峰が見えていた。冬は風が強く、土地の人は「甲州のからっ風」と言っていた。冬は寒い北風だったが、凧揚げにはもってこいの風だった。自分で作った大きな凧が小さな点になり見えなくなるほど高く上がった。単純だが凧揚げはどこか心を高揚させるような妙な気分があった。おそらく外から見れば、面白くもないのに何時間も挙げていた。女の子たちも凧揚げに参加するような気分で、ずっと凧が上がり続けるのを見守っていてくれていた。楽しい思い出だ。冬の晴れた風の強い日が凧揚げに最適だった。凧の糸を持っていると自分が飛ばされそうになるほど風は強かった。凧揚げの醍醐味だ。凧揚げは冬の遊びだった。特に正月前後が多かった。何故夏に凧揚げをしないのだろうと思ったこともあったが、あまり追求したことがない。

東の方向には秩父山脈が遠くに見えていたが、そこはあまり私たちの関心には直接入ってこなかった。しかし、地理的には東の大菩薩峠から山梨県と埼玉県の堺に細長く位置しており、近くでは昇仙峡まで秩父山系の続きだと主張する人もいる。わが昭和村西条でも、秩父の三峰講といって、その部落のその年の代表者が三峰宮を参拝して帰ってから、頂いてきた御札を他に家庭にくばっていた。まだ江戸時代以来日光にまで連なる秩父山系の山岳信仰の繋がりが残っていたのである。かなり遠くの我が村からも三峰宮(三峰さん、と村の人達は言っていた)におまいりし、三峰講を祝いに出かけていったようだ。そういった古い交流は戦後急激になくなっていった。特に60年代以降そのしきたりのような行事が急速に減って行ったように見える。人間の移動形態は、社会情勢と生活意識の変化が最も大きな要因であることは確かである。多方面の現象に関しても、農村から都市への集中が経済的にも、意識的にも加速し出したのも60年代だったと思う。日本の決定的な変化は終戦直後ではなく、私たちの意識の変化が始まったのもちょうどその頃だったのは何か不思議な感じさえする。それが敗戦ということの実態なのかも知れない。その動きに連れて、山への思い谷や山への関わり方も変化していったように思う。

私は山は登るものではない、ということを強調しすぎたかもしれない。また山を自然のままに放っておくと、水害や材木利用のための樹木の伐採により、山が森が荒れていくことを知らないわけではない。林業と呼ばれる比較的新しい事業や制度、つまり新しく山に植林することや、樹木を育てるための間伐、除伐、択伐などの地道な作業が重要であることは承知しているつもりであるが、自然の山をむやみに禿山にしてしまうような方向は言を待たず、途中まで自動車で行くための新たな登山道登山やスキー場の建設には批判的である。日本でも、山に人が手をいれるようになったのは、室町時代頃からだと言うし、戦国時代から徳川にかけて大名らの、いわば内戦による山城の建設などにより、山がその破壊の対象になってきたし、明治期から世界大戦にかけて森林の過剰な伐採によって山が荒れたことも歴史的事実である。その辺の事情も忘れてはならないだろう。そういった意味でも林業は重要だし育つべきだが、都会に人口が集中し、神社や寺さえ生存できない過疎の村が頻出し始めている現在、森や里のありかたを考えるべき時に来ているように思う。それほど意識し関与したわけではないが、先程から語って来たように、山は私にとって遠くに眺めるものであって、登るという意識は殆どなかった。私が育った特殊事情なのだろうか。外国でも、高い山に登るということそのことを目的とした山登りは、ルネッサンス以降に始まったことだという。その辺のところを少しこれから考えてみよう。

付:「辞書を読む」(2)
この文章を書いていて、山や森林に関しての言葉がいつ頃から使われだしたか気になった。以前からこの言葉は古代からあるのか、江戸時代頃からか、あるいは明治以降に使われだしたのかという疑問があった。すべての文献を調べるわけにはいかないので、辞書で調べるより他にない。しかし、漢和辞典はもとより、国語辞典にもその言葉の「初出」がどの文献なのか、いつ頃から使われだしたのかの記述がほとんどない。それに対して英国の 「OED=The Oxford English Dictionary」(1857年編纂開始。現在の2015年の最新版は全20卷と補遺3卷から構成されている)その言葉の意味のほかその言葉の「初出」とその文献がよく載っている。さすが世界のOEDだと思う。出た版の年代でも異なるが、言葉の歴史に関心を持つ読者にとってこんなに便利なものはない。言葉には流行もあるから、その当時の言葉、特にすぐ使われなくなってしまう言葉をすべて網羅することは難しいとしても、基本的な日本語の歴史を辞書から学びたいと思うのは、私だけだろうか。ドイツの有名な「童話」を集積したグリム兄弟(Jacob- und Wilhelm Grimm)が作ったドイツ語の辞書(”Deutsces Woerterbuch” はライプツィヒで1854年に初版が出ているが、その後大きな改定を経て現在は1984年、dtv社から33卷本が出ていて底本になっている。この辞書も、語句の説明のために引用された著者や書名も必ず記載されており、歴史的に読む辞書という性格が強い。辞書は完結することなく新たに編纂されていくものだが、その典型的な辞書である。
古語に関しては、岩波の「古語辞典」(補訂版、1992年)は出典も明記してありとても役に立つ。その現代語版を歴史的に網羅した辞書がほしい。

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