最近、運ー不運とか偶然ー必然とかいう言葉がとても気になるようになった。自分は何によって動かされているのか、自分の意志でやっていることも、実は何かに操られているのではないか、といった古い学生時代からの疑問がまた浮上してきたのである。しかもこれまで生きてきた長い過去を振り返るときに、またその疑問を強く感ずるようになったのである。

自然の成り行きなのか、自分の判断でそうなったのかよくわからないことが増えてきたのである。どちらかに軍配を挙げることは出来ないことは分かっていても、どちらかに加担したい誘惑にかられる。この判断が自分の人生に関わるときには、私の場合いつもその答えは結局「自業自得」となってしまうのだが、それは、運不運、偶然必然に対する実の答えではない。いろいろな要素を積み重ねて納得するにはこれしかないから、そこに行き着いたようなふりをしているだけである。しかしそれは、体のいい妥協策なのではないかと考えるようになった。自業自得と考えてすべて諦めるという考えに対して、そうありたいと思うのは「人生、行き当たりばったり」という生き方である。学生時代は、そのような捨てっぱちな生き方はしたくないと思っていた。今考えれば、学生時代にすでに「行き当たりばったり」の人生は開始されていたに違いないのである。しかし、この生き方は一見乱暴で無鉄砲で不真面目なように聞こえるが、実は人生の悲惨さを嘗め尽くし、運不運の何であるかを経験した結果出てきた、最期の実験結果であり、これしかないと言えるような必然性を持っている生き方なのでないのか。近頃このような生き様が現実味を帯び、その都度実感されるようになってきたのである。
よく「人生負けても勝っても、努力すべきだ」「努力は必ず報われる」などと諭すように言う人がいるが、そういう優等生のような言い方は、運不運のもたらす過酷な事態に付き当たったことのない、お坊ちゃんの言う言葉であるように思えてきたのである。そのような誰もが納得するような提言は、意味が無いわけではないし、正しくもある。ただ現実性(リアルさ)に欠ける。「行き当たりばったり」の人生は、確かに夢も希望もないし生きる態度としてすべてが 求めるべき方向ではないには違いない。誰もそれを望んではいないだろう。にもかかわらず、現にこれまで生きてきた道のりを辿ってみると、地図に書いてあるような道を計画通りに、誰をも傷つけることなどもなく自然に歩いてきたと自信が持てる人がどれくらいいるのだろうか。私には自信がない。行きたかった場所にはたどり着けず、これでよかったなどという感慨は殆ど無い。自業自得などとさえ言えない。そう言えるのは自分の人生を達観出来る人に違いない。そんな余裕などない、というのが私の今の実感である。
それとは逆に、他人の生き方を見ていると、隣の芝生はきれいに見えると言った意味で、羨ましかったり共感出来たりすることはあるし、その共感はかなりの強度を持って迫ってくる。しかし、本人以外には、その内容まで本当に分かっているわけではない。それを推し量って「実感した」ものとして、それを言葉で表現しているのである。表現するということになると、それが自分のことであれ、更に他人のことであっても、そこが、詩歌の発生する場所でもある。それに曲をつければ歌曲になるし、その歌が流行すれば流行歌になる。

船頭小唄
俺は河原の枯れすゝき、
同じお前も枯れすゝき、
どうせ二人はこの世では
花の咲かない枯れすゝき
(野口雨情作詞、中山晋平作曲、『最新流行歌集』大正11年)より

無縁坂
運がいいとか悪いとか、人は時々口にするけど、そうゆうことは確かにあると、
あなたをみててそう思う。
忍ぶ不忍無縁坂、かみしめる様なささやかな僕の母の人生。
(さだまさし作詞・作曲『無縁坂』より)

このような歌を聞いていると、私たちはその言葉に引きずられて感動し、涙を流すことさえある。ただ、ここで私が言いたいのは、そこに綴られている人が誰であろうと、これらの歌を聞いていて心を動かされるのは、その裏側に「行き当たりばったり」の寂しい人生を送っている自分があることに気がつくからではないのか、ということである。少なくとも私にはそんな気がしてくるのである。なにか情けなくなるが、自分の人生も結局、運不運もなく、自業自得だと呟いて慰めることさえ出来ない、言ってみればでたらめな「行き当たりばったり」の連続だったのだ、と思わされる今日この頃である。

2 Thoughts on “「行き当たりばったり」の人生

  1. 宗像 眞次郎 on 2016年10月29日 at 3:43 AM said:

    じぶんの思い描いたような人生を実際に実現する、というのはなかなかないですものね。政治家を志して地方官僚で一生終える、とか、医学研究を究めようとして開業医に「おさまる」とか、プロの芸術家になりたくて趣味で終わる、とかいった話はよくあるし、「じぶんはなんでこんな職業についてしまったんだろう?」とわからないことだってある。
    職業うんぬんにかぎらず、日本のような平和な国にいると想像がむつかしいけれど、難民となって言葉も通じない国に危険を冒して飛び込まなきゃいけないひともいる。そこまでいかなくても、普通に努力しても報われることの少ない国に生まれて辛酸をなめているひともある。そういうひとたちは「とにかく今日を生き延びることが目的」という状況にあり、将来の自分など架空の領域なのかもしれません。

    そうはいっても、環境とか外的要因の制約を受ける中でも、ひとはなんとかしてほんの微々たる部分であっても「自分らしく」振舞いたい、いろんな制約のなかで、理想とする自分に少しでも近づけるような行動をしていきたい、と思うのではないかな?と想像しています。その、「自分らしさ」を求めることの積み重ねを、のちになって振り返るとき、そこにじぶんの「人生の必然性」を感じるのではないかな?と思います。

    言い換えれば、「なりゆきまかせの人生」ということばは、事実を表現していると思いますが、そのような人生にじぶんの意思や理想がまったく反映されていないか?といえばそうとも言えないだろう、とも思います。これは、じぶんの人生をどのように評価するのか?ということとも関連するのかもしれないな、と思いました。

  2. 緒方宏司 on 2016年10月30日 at 12:53 AM said:

    行き当たりばったり」の人生はいいですね。他人からは自業自得と思われ、自分では運不運でかたずけてしまいそうです。しかしそうではなく「必然性を持っている生き方」であるとのこと同感です。神だけはその必然性を納得してみていると(見守っているわけではない)私は信じています。神だけは私の「明日」を知っていると思っています。だから、ある意味安心して生活し生きていけるのです。「人間万事塞翁が馬」とは全然ちがいます。あれは占い師の単なる儒教的作り話に過ぎないと思っています。あのように幸不幸が交互に規則的に訪れるとは限らない。「泣きっ面に蜂」になることだってある。ダメを押すように不運不幸がおそってくることもあろう。「他人の生き方をみていると、隣の芝生はきれいに見えると言った意味で、羨ましかったり共感出来たりする」のも言われるように相対的なもので内容までわかっていないのです。ただ私の子供の頃は隣の芝生は「常に、絶対的に」きれいにみえてました。「因果応報」(現在は悪いことに使われるので自業自得と類義語、本来は良いことには良い報い、悪いことには悪い報い)「身から出たサビ」「情けは人のためならず」「他力本願」など人生訓はいろいろある。ただ神だけが「明日」そうなることを知っている。神の領域は人間は侵すべからずだとおもいます。
    ただ「棚からぼたもち」を待っている今日この頃です。
    私は「諦念」という言葉を中学生の時に知ってその言葉が頭の片隅に残っています。
    それは私の気持ちを楽にしてくれます。
    「さもあらん!」と。

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