現今、昔からある、いわゆるカメラでなくても、携帯でも、スマホでもいつでも、どこでも誰でも写真が撮れるようになった。デジタル化現象があらゆる部門に浸透し、写真もデジタル化されて気軽に誰でも撮れるようになって、その意味が変化したように思う。それ以上に、それに後になってからでも修正したり合成したりすることが自由にできるようになってしまったことが、問題のように思える。

ロラン・バルトが、偶然性を含めて「それが過去のその時にそのように在った」ことが写されるのているのが写真というものだ、という考え方が、デジタル技術によって揺るがされている。技術は進歩するというが、それがいいことなのか、そもそも写真における進歩とはどういうことなのか、よくわ分からない。しかも最近は、印画紙に焼き付けた写真は少なくなり、スマホなどの機械の中に保存されていて、その映像を見たり見せられたりすることが多くなった。私にとってあの像は写真ではない。写真を見ているという気がしないのである。私の古い写真の観念がそれを許さないのである。そもそも、写真なるものが出来た時、映像的な過去を現在に甦がえさせるという不自然なことが可能になったのだから、背景をまったく変えてしまったり、上下左右の伸び縮みを自由に調整したりするといったことは、「かって、こう在った」という写真の思想を凌駕し、過去の様相を自由に変更させる技術や、印画などという時間のかかる操作を省いて、今とったものを瞬時にそこで見せることの技術なども、写真の歴史のなかで、必然的な成り行きと言うべきなのだろうか。その変化に納得するところもあるが、写真というものの存在と意味からして、こうなったら写真という言葉を変えなければならないのではないかとも思う。写真は、どこかで「遠い記憶」つまり、何らかの形で「過去」と結びつていなければならないように私には思えるのである。人の顔つきも衣装も背景も、偶然性も含め写真を撮った時点のもの、つまり過去のものなのである。そういった意味では、現代の写真は奇妙に聞こえるかもしれないが、絵画的である。絵画は時間の経過、つまり「過去」と直接的に結びついていないし、結びつく必要もない。そこが決定的に違う。大袈裟に言えば、写真と絵画は似て非なるものである。写真は「物(者)と時間」と不可分なのに対し、絵画はそれらとの関係や束縛のされ方が写真と異なり自由である。この差は大きい。そういった意味で、現代の写真は絵画的になってきていると言えないことはない。写真を撮り、それを保存し見ることにおいて、「過去」が重要で優先されることがなくなっているからである。つまり、写真が「遠い記憶」と手を切ってしまったのである。

そもそも今は、写真は貴重なものという古くから存在していた一般的観念がなくなってしまった。セピア色の写真はなんとなく今見ても「写真」という感じがするし「遠い記憶」と結びついている。私が写真を撮り始めた頃はもちろんまだカラー写真はなかった。フィルムで12枚撮りが多かった。そもそも私自身がひとりで写っている写真は戦前の一歳の頃の家のお子守さんにおんぶされているものが一枚だけである。家族写真は何枚かあるが、残っているのは学校でとった同級生が並んでいる集合写真だけである。一人で写された写真は中学生になるまで一枚もない。田舎に育ったせいか、戦後すぐの頃は、そもそも写真機(カメラ)なるものを見たことがほとんどなかった。カメラを持っている人が近くにいなかったのである。自分でカメラを使って写真を撮るようになったのは高校生の終わりごろだったと思う。姉が東京の大学を出て就職し、カメラなるものを買ってそれを借りたのである。ミノルタの丸い感じのする一眼レンズのカメラだった。美しく格好いいものだと思ったものだ。まだフィルムも、また現像・焼き付けも高価だったので、パチパチと沢山は撮れなかった。自分でカメラを持ったのは大学を卒業する頃だったと思う。ニコマートを上の姉が買ってくれたのである。その頃はニコンF2というのが高級な機種だった。ライカのカメラなど見たこともない時代だった。私はニコマートで満足し、壊れるまで20年近く使っていたと思う。ただどうしたわけか、私は写真を撮るのが下手で、しかも絵を描くように一枚一枚ゆっくりとしか撮れないのである。写真に向いていないのである。旅行に一緒に行った友だちは瞬時にたくさんの写真を撮っているのと対照的だった。今でもそうである。枚数も多くないし、自分が撮った写真で満足したものは殆どない。写真は好きだが、どうも自分で撮るのも撮られるのも苦手だからであろう。撮るものは人物は少なく、建物や風景がほとんどである。これは私の資質だから仕方がない。でもやはり写真は人間が写っているのがいい。人間が居てその周りの事物が生きてくるように思えるからである。
それに写真はやはり古いものがいい。偏見かも知れないが、写真はどこかで「遠い記憶」と結びつく必要があるし、結びついているから写真なのだ。

2 Thoughts on “古い写真ー遠い記憶ー

  1. 宗像 眞次郎 on 2016年4月2日 at 3:26 PM said:

    似たようなことをわたしもよく思います。
    セピア色のくすんだ写真のもつ有無を言わさぬリアリティは、現代の鮮明なデジタル画像には到底期待できませんものね。
    多少趣旨はそれますが、技術の進歩がなんとなくひとを現実から遠ざけて空想の世界に浸るのを助長しているのを感じます。デジタル写真が好きなように加工できて、現実でなく加工するひとの好みの風景を示すのも一例ですが、顔も名前もさらさずにネットで意味不明のつぶやきをしたり・・・でも考えてみればマスメディア自体、これまでずっと真実の報道を装った虚構の空間の構築をしてきて、それを受け手も受け入れてきているという現実もあり、むかしもいまもひとは真実よりも自分の好みにあったフィクションを好むものかもしれないな、とも思います。
    そうであればなおさら、世間や自分自身のなかの「常識」を疑いなおかつ自分の感性の反応に敏感でありたいと思います。理論はその気になればいかようにも構築でき、どんな結論であれそれなりの「リクツ」は備えられるけれど、感性は正直ですから。

  2. 緒方宏司 on 2016年4月8日 at 1:54 PM said:

    私は写真におさまるのはあまり好きではない。子供のころから撮った数も少ないがかっこよく映っているのが皆無に等しいのです。しかし、古い写真を見るのは心休まる様な郷愁を覚えます。書かれてあるように「セピア色の写真」だったらなおさらです。白髪で白いあごひげの祖父(父方)に抱かれたそれこそセピア色の小さな写真があるが、祖父との写真はこれだけです。私が1歳くらいだから昭和22年頃だとおもいます。残念ながら可愛い顔ではないのです。
    今の機械的写真はある意味無味乾燥ですが写真の目的が違っているとおもいます。写真はインターネットにアップされ不特定多数の人と「この瞬間」を今とみなして共有し楽しんでいるのでしょう。「『過去』が重要で優先されることがなくなっているからである。」というのは事実でしょう。
    写真は白黒。土門拳さんの作品が好きだからです。
    共稼ぎらしい炭鉱住宅の昼下がり。猫一匹と低い軒先。狭い通路。
    白黒の鋭さと迫力が五十年以上前に強烈な印象を受けました。
    「静寂」という「音」まで撮影されていました。
    一昨年市民大学で写真家の篠山紀信さんの講演を聞きました。
    「プロとアマの写真家双方ともいい作品は偶然できるものです。でも、偶然の確率には雲泥の差があります。それはプロの偶然はただの偶然ではなく『意図的偶然』だからです。」いい作品ができるようにプロとして血のにじむような悪戦苦闘をされているんだなとおもいました。プロのプロとしての矜持も感じられました。

    私は『遠い記憶』と結びついたアルバムをたまには開くことにしよう。

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