何かを集めることは人間に本能的に備わっているものらしい。何かを収集するという行為は何かを反復する行為と似ているところがある。子どもの遊びを見ていると、どの遊びにも必ず繰り返しの要素が含まれている。最近の子供の遊びや遊び道具を見ていると、一人遊びの要素が強いように思う。兄弟が少ないこともその原因の一つだろうが、子どもの遊びの基本はやはり繰り返し同じ行為を反復することにあり、その繰り返される行為とその結果にある小さな差異に興味と喜びを感じていることは間違いない。最近の遊び道具は、子供の心理、それに親の心理をも考えて興味深く遊べるように工夫してある。子供の遊びに対する衝動は繰り返すという行為にあり、遊びの内容にあるのではない。極論すれば、繰り返すことが出来れば、内容はなんでもいいのである。内容は単純であればあるほどいいということになる。その典型的な遊びが、昔からある「かくれんぼ」「石蹴り」「おしくらまんじゅう」などがある。これらの遊びはいかにも単純である。反復が難しい複雑なものは繰り返しが難しいと、逆に飽きてしまうのである。その点から言うと、最近の子供のおもちゃは複雑すぎて、到底長続きはせず、半年もすれば飽きられてしまうだろう。けん玉や竹馬などの遊びもあるが、それほど現代に普及するとは思えない。

最近は子どもの遊び道具を新規に開発し産業化して販売するようになって来ている。玩具産業にとってはそれでいいかもしれないが、実は子どもの遊び道具としては失格である。子どもの年齢にもよるが、単純な反復を無視した遊び道具はすぐ飽きられて、見向きもされなくなるのが関の山だ。だが、現代の遊び道具はそれをうまく回避する技術によって生き延びようとしている。その典型がゲーム機の普及と新たな開発、とくに最近流行りのスマートフォン(スマホ)遊びを合体させたことである。スマホ本体は変わらないが、様々なソフトを開発することによって変化をつけ、飽きることを回避させているのである。スマホに内蔵されたゲームを夜中に寝床ででもやっていて困ると言った親の苦情が学校に寄せられ、社会問題になりつつあるという。遊びが強制された反復行為として続行されているのである。子供の遊びに時代的に派生した大きな変化が現れて来ているように思う。
ただここで問題なのは、そこにあるのは、単純な反復ではなく、人間が根源的にもつ攻撃・残虐・恐怖などの無意識的欲動を悪用して利用していることである。ゲームをする子供たちの非日常的な感覚、言ってみれば夢の中でのような感覚へ引き込んでしまうことである。私はその点に関しては詳しくなく実感もないが、それを体験した人の言によれば、あたかも喜怒哀楽の実体験のように引き込まれてしまうらしい。それこそ「夢中」になってしまうのだ。おそらく麻薬を飲んだのと似た状態になるのだろう。最近のゲームソフトはその「夢中にする」心理的な原理を意識的に導入し、子どもの無意識作用にまで波及するように、最新の技術を導入して作成されている、という。そのゲームソフトをあえて精神分析的に言えば、快感原則が現実原則を凌駕してしまった状態にしてしまう装置と言えるかも知れない。そこでは時間概念の欠如と因果関係の忘却が支配的となり、しかもそのようなゲームでは、それを無意識的に強制させられているのであるが、その強制された快感故に、止められなくなるのだ。そこが問題であり、危険なところである。

それが「収集すること」とどんな関係があるというのか。

遊びはまず、遊び道具の収集から始まる。私の記憶によれば、私もその遊び道具を集めて、箱のなかに入れて収め、秘密の場所に隠したりしていた、ように思う。
私が子供の頃、集めたものは、どんぐり、ビー玉、メンコなどであった。それが遊び道具にもなっていた。女の子はおはじき、椋の木の実(黒くて硬く小さなビー玉のような実、最近あまり見ないが、椋の木が当時は近所の家の屋敷によく植えられていたが、その実を子どもが遊び道具にすることも無くなり、用途がなくなってしまったからであろう)や地面に書いた図形を「ケンケンパー」と叫びながら飛んだり跳ねたりする遊びなどをやっていた。後はお手玉。小川の土手に生えている数珠玉という植物の実を古い残り物の布の中に適当な数だけ入れて両端を糸でくくり、
中の数珠玉がぶっつかって音が出るように、母や祖母に作ってもらったお手玉を唄を歌いながら高く空中に投げ、落ちてくるのを畳に落ちないように素早くとりまた上に投げ上げて遊んでいた。どうした訳かお手玉は女の子の遊びで、男の子がやっているのを見たことがない。上手な子はお手玉を三つあるいは四つ使い、壁にお手玉を当てスピードを遅らせたりしてうまく遊んでいた。そういった遊びは、小学生ぐらいまでで、ある時期から遊びに変化が現れてくる。子供の遊びからの別離である。遊びの意味が変化するのである。小学校五、六年あるいは中学生ぐらいになると放課後、今で言う部活のようなものをやるようになるし、やっていたように思う。遊びも単なる遊び仲間とではなく、他者性を意識した遊び相手との相互関係を主にした意識的行為となるのである。
いわゆる子供の遊びは小学生ぐらいまでで、そこでは、遊び道具の収集とそれを使って遊ぶという行為は同じことの反復であり、その二つは密接な関係にある。収集と反復は原理的には同一の原理から派生する、あるいは、同一なるものの「反復行為」の変形と見ていいような気がする。しかし原理は同じでも、そこに変化が現れる。遊ぶ子供たちの意識に自然な自意識から社会的自意識への移行が生じてくるのである。この自意識の移行した行為は、以前から自分に親しく存在していたもの、いわゆる幼児的収集性とでもいうものを失う、あるいは自ずからそれを投げ出してしまい、その失われたものを新たに再発見する行為になる。そこに新たな快感が発生する。自意識が社会性をもつようになった証拠である。そうなると、自然な遊びでは満足できなくなり、遊びの原理を新たに再発見する必要を感ずるようになる。そのためには、古い遊びを失う事が前提になる。つまり再発見するために「失う=投げ出す」という自主的な行為が必要になってくるのである。本当は失いたくないのだが社会がそれを強要してくるのである。それが始まるのが、個人差や社会環境の違いはあっても、およそ小学校中学年ぐらいから、遅くても中学生のはじめのころである。大人への入り口と言ってもいい。精神的・身体的転換期である。母国語が決まるのもこの時期である。子供時代との別れである。人生でもっとも重要な時期と言ってもいい。だがこの「子供時代」との別れは、決して取り戻せない幸福な時間として無意識の中に刻まれた「喪失感」として奥深く残存し、それ以降も、音楽で言う「通奏低音」<basso ostinato,basso continuo>のように、同一なるものを反復しながら、いつまでもずっと鳴り続け、響いているのである。

人間は上部の意識の変化に応じて新たな収集をはじめなければならないのである。
これは楽しいことでもあるが、また同時に辛いことでもあるのである。人間はだれでも何らかの収集を強要されているからである。収集癖のある人、あるいはある行為(賭け事や趣味など)に囚われてしまっている人には、かの子供時代の遊びが忘れられず、それを取り戻したいという意識が強く残存している人たちだとも言えよう。いずれにしても、「収集する=反復する」行為は一筋縄ではいかず、無視することの出来ない難しい事柄なのである。どう転んでも「子供時代はもうない」(新宮)からである。

この「収集する」ということは、これからも何度も採り上げることになる。

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