以前、「英語仮名交じり文は可能か」という文章を書いた覚えがあるが、最近新聞や雑誌、テレビなどで話されたり、字幕になったりしている日本語を聞いたり、読んだりしていると、日本語も変わりつつあると日々感じている。

言語学者でもある今野真二氏に『日本語のミッシング・リンク』という著書がある。昨年刊行された書物である。副題が「江戸と明治の連續不連続」となっている。「ミッシング・リンク」という表現自体がそれほど一般に使われる言葉でもないし、その内容は更によくわからない。ここで著者は、連続していることが期待される二つの事柄に関して、それが連続していないように思われる、その「間隙」をミッシング・リンクと言っているのである。今野氏は江戸時代の日本語と明治期の日本語のあいだにその間隙があり、それはある「断層」であり「和語と漢語の融合態」から「漢語を(一方的に)減らしたのが、ある時期からの明治期からの日本語ではないか、というのが本書の主張の一つである」と書いている。もしその考えを現代の日本語の中で受け止めるならば、昭和と平成の間にも「間隙」としての「断層」があるように見えてくる。その断層は、おそらくワープロやコンピューター(PC)のワードなどで文章をよく書くようになったことと深く関係していることは間違いないように思う。その結果、まず文章を書くとき、横書きが多くなり、特別な場合でない限り、手紙さえ横書きになりつつある。メモを縦書で書く人は現今皆無になってしまっている。それに平行して生じてきたのが、英語の、いや日本語化した英語の氾濫である。それが良い悪いと言っているのではない。ただ、それがなんとも言えない煩わしさに感ぜられるのは私だけだろうか。まさに「もとからの日本語を減らし、わけのわからぬまま英語をカタカナにして多用するようになったのである」やはりそこに、今野氏の言う断層が現れている、と言っていいだろう。つまり、われわれの現今の日本語はそのように変化しつつあるということだ。ただ明治期の人々は言語の変化に意識的であったということには注意しておく必要がある。そこが重要なのだから。明治期の「言文一致」運動なども一つの意識的に考えられ意図されたた運動だった。しかし、現今の文章は何の抵抗もなく、無意識的に変化してしまっている、というところが問題のように思える。

現代の日本語に専門用語や業界用語、それに英語の頭文字だけを連ねた表現が急に増えたのも平成になってからのように思う。やはりそのころから社会が変化したのだろう。その原因の一つにマスコミが使う、あるいは作り出す新語の影響が大きい。それに新聞や雜誌に載る広告用語にそれが拡大され、それに引きずられる形でその用語が広がっていく。しかも最初はその言葉の内容はほとんど理解せずに使っている言葉がほとんどである。子どもが意味もわからず大人の話す言葉を真似して言葉を覚えていくのは、言語獲得の方法として基本的な作業であるから、意味を理解しないでも使っているうちに分かってくる場合も確かにある。「シニフィアンはシニフィエに先行する」という命題は、ソシュールなどの構造言語学の核になっているが、実は言語習得の構造を確認することから始まったことは間違いない。
現今の日本語は、その言語理論を悪用する形で利用しているようにさえ見える。しかもその操作に気付かずに、その操作の罠に嵌ってしまっているのである。そのやり方は資本主義が仕掛ける巧妙な罠なのである。それが端的に現れるのが商品の宣伝に使うイメージを伴う造形や言語である。それは商品を売る会社のマークや商品の効用を宣伝するキャッチフレーズとして登場する。だいぶ昔の話になるが「カルピスー初恋の味」というのがあり、一世を風靡した広告の成果として歴史に残るだろう。「元気ハツラツ、オロナミンC! 、大塚製薬です」「ーん、まずい、もう一杯(キュウサイの青汁)「日本の夏、金鳥の夏」(蚊取り線香の宣伝文句)」なども、日本語の特質を暗に踏まえた傑作と言っていいかも知れない。広告は挿絵や映像と不可分だから、それを差し引いても言葉としての機能もよく捉えているとも言える。しかし、ここで私が言いたいことは、少数の例外を除きマスコミによる広告の言語が、あまりにも日本語の日本語らしさを無視して、大袈裟な奇抜さに走り、それに訳の分からない奇妙な英語を多用することによって、日本語の持つ品格を失ってしまっていることが問題ではないか、と言っているのである。商品が売れさえすればいい、そのためにはいかなる形態の広告も許される、といった傾向に対して無批判であり、それが言語的にも結果的に何をもたらしてしまうか、ということに対して無感覚になってしまっている、ということが実は大きな問題なのである。使われ、自分も使っている言葉に無関心になってしまっているのである。現今の言語はよく言われるように「乱れている」のではなく、われわれの言語に対する無関心と無感覚さが積極的に「乱している」のだ。言語現象ほどその時代のあり方を示しているものはないのである。話し言葉にしろ書き言葉にしろ、現今の言語感覚は日本語の持つ可能性を逆の方向に向けてしまっているようにみえる。
日本語の持つ可能性が逆転してしまっている同じような現象がもう一つある。日本語は長い言葉を短くする。あるいは短くしても意味が通ずるのが一つの特徴である。「マスコミュニケーション」を「マスコミ」と短くして使う事ができるが、それがあまりにも多用されすぎ、今は逆にそれが本語(元の言葉)のようになってしまっていることがままある。英語では「masscommunication」を「masscommi」とは短縮出来ない。せいぜい、頭文字を取って短縮した「PTA」あるいは「TTP」方式とでも言うべき短縮方法があるだけである。それにひとつの単語自体を短縮するのはほとんど不可能である。日本語では、発音される音韻が一つ一つ切断できるので、短縮するのが簡単で、すぐそれに相当する言葉が表れて来ることになる。「携帯電話」が「携帯」になり「ケータイ」になる。「スマートフォン」がすぐ「スマホ」となって流通する。私たちはその短縮されることにほとんど違和感がないが、外国人にはその短縮は異様に感ずるはずである。外国語ではそういった短縮が不可能とは言わないまでも、難しく、短縮すると意味が通じなくなってしまうからである。「就職活動」を「就活」、「結婚活動」を「婚活」と短縮するのも同じだと言っていい。短縮するというやり方としては同じ意味を持っていると言えるからである。ただし「朝活」「転活」「妊活」「保活」「終活」「夜活」「友活」などになると内容も分からなくなってくる。分かるのはせいぜい「部活」ぐらいまでだ。その理由は、その短縮した言葉の元の言葉があいまいではっきりしないからだ。つまり、シニフィエから強引にシニフィアンを作ってしまうからである。これは言語の一般法則に違反しててしまっている。そのような言葉はおそらくすぐ消えていくに違いない。もし生き残るとすれば、独立した一つの「語」として使われるようになった時だけである。言語の歴史を見ていると、必然性のあった言葉、美しい言葉だけがやはり残っていることは間違いない。残る理由がやはりあるのだ。そこを考えたい。

日本語ほど包容力のある言語は、世界中どこを探しても存在しない。これは誇っていいことです。しかし、その包容力がもたらす弊害もあることを忘れてはならない。ということは、その使い方は、その言語を使うことが、時代や社会にどのような影響を及ぼすか、またそれが日本語として美しいかどうかを意識的に判断して使う必要があるということである。ただ単に「時の流れに身をまかせ」で、その時代の言語の動きに盲目になっては駄目なのだ。そこで日本語の寛容さ美しさの意味を忘れてはいけないのである。無用なカタカナ英語の乱用はもっての外である。それを自覚した上での「時の流れに身をまかせる」のは理にかなっていると言えよう。私は政治に関しては進歩的でいいと思うが、言語に関しては保守的でありたい、と願っている。

One Thought on “時の流れに身をまかせ−現代の日本語再考

  1. 宗像 眞次郎 on 2015年12月10日 at 8:55 PM said:

    これはことばというものをどうとらえているか、ということと関連すると思っています。
    ことばを伝達の道具とわりきるのであれば、外国語を混ぜればかっこいい感じになる、縮めコトバ(就活とか)の多用は、頭の回転が速いような気分になれる、学術用語などなら通を気取れるなどといった効用がある。

    そのような発想の根底に、ことばにたいする侮蔑の感覚があると思います。もちろん、「外国語や縮めコトバがことばへの侮蔑だなんていいがかりだ、そんなつもりは微塵もない」と、つかっているひとたちは言うだろうけれど、ことばなんて意味が伝わればいい、と思っている時点ですでに間違っている。

    ことばというのは、それ自体、文化であり、一つひとつのことばの持つ意味合いも、そのことばを使ってきた私たちの先達の人生の蓄積によって独特のニュアンスを含んでいる。当然、「語感」もそこから来ている。語感を伴わない、単なる記号なら、俳句も短歌もなりたたないし、なにかを論じるに際しても、この「語感」というものによって、論理のすきまが埋められ肉付けされるのだと思います。それがなかったら、思考の道具たりえないでしょう。

    日本人独特の、理屈よりも普遍的な共感をより重視する感性も、日本語の構造と関係しているのではないか?という気がしています。英語のように、「まず結論。つぎにその根拠」というスタイルではなくていろんな周辺の事情への理解を積み重ねて結論を推し量っていく・・・そういう思考回路と日本語は親和性が高いように思います。

    そういった意味合いで、美しい日本語を守ることと、日本的な価値観を守っていくことは無縁ではないと思います。

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