山に登るとよく言う。それほど真剣に調べたことはないが「山登り」という言い方は、そんなに古い言い方ではないと思う。そもそも、何かの用事がなければ山の中まで行くことはなかったようだ。植林などという考えも古代のものとは思えない。住居事情が変化して来たこともあってか、必要があれば樹木を伐採して建築物に使用したことはあっただろうが、それほど頻繁に行われていたとは考えにくい。炭焼の技法は古くからあったようだが、産業にまでは発展しなかった。山に楽しむために登るなどという発想さえなかったのである。ましてやレジャーとしての山登りは近代の産物であることは間違いない。冬に山で仕事をしていて雪崩に遭遇することはあったかもしれないが、希だったと思う。昔の人は山は怖いものという意識があったからだ。最近登山家と自他する人達が雪崩に巻き込まれ、警察に救助を要請したりしている。その危険を感ぜずに登山をするなどというのは山を甘く見ている証拠で、許せない感じがする。そこまでいくと、雪崩による死亡事故は自然災害によるものではなく、人身事故としか言いようがない。山登りの遭難が近・源代人のおごりであることは言を待たない。山は生活に必要不可欠のものだけを産出するためのものであって、遊びがてらに使用するものではない。それにはそれなりの覚悟を持つべきだろう。山は人事を超えたところがあり、恐れおののく対象であった。その歴史的事実を忘れてはならないだろう。 Read More →

子どもたちが遊ばなくなった。遊べなくなってしまったのだ。子どもが遊ぶ施設は以前より充実し、危険性にも考慮がなされている。にも関わらず、子どもたちの遊ぶ姿が減っていく。社会が子どもたちから「遊ぶ」という機能を奪っているからではなかろうか。おそらく本当の「遊び場」がないのだ。
いや「遊び場」が機能していないのだ、というよりそもそも子どもたちが遊ばなくなったのだ。
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昨晩春雷がして、本格的な春が来る感じがした。今年は春雷が遅かった。春がなかなか来なかったのだ。私にはそう感じられた。
「春雷」とは、冬に終わりを告げる雷鳴を言う。ここでは「冬に終わりを告げる」というところが重要なのである。一般には春鳴る雷鳴のすべてを指すわけだが、ことさら春雷というのだからやはり、春に聞こえる雷の全てを総括して言う言葉というより、それは冬の終わりを告げる瞬間的な雷鳴と言ったほうが、その語感からしても語彙に合っていると思う。その音を聞く人の心境にもよるのかも知れないが、冬が去って、やっと春だという感慨は「春雷」の本来の意味であって、春の到来を告げる「春一番」という表現などよりも感覚的に強く響いてくる感じがする。 Read More →

柳田国男の『雪國の春』は名著だと思う。かねてからの私の愛読書でもあった。
大著ではないが、『古事記』や『日本書紀」などの史書とは異なった、日本という国が自然とともに流れてきた歴史の経過がよく分かる書物である。それを読むと、日本が歴史的に受け入れてきた二重性、異なったもの意を問われることなく自然に併存している意味がよく理解できる。 Read More →

昨日節分だった。豆をまいた。掛け声を出してみたら「鬼は外、福は内」が先なのか、あるいはその逆なのか分からなくなった。調べてみると両方あるらしい。どちらでもいいのかなと思って、両方言ってみたら、どちらもそれなりによく響いた。特別なことにこだわらない限り、何事も二つあり、それが現実であり、普通のことなのかもしれないと思った。どちらでもいいのである。悪く言えば「優柔不断」になったとも言えるが、若い頃よく使っていた「絶対に・・・」という言葉使いに違和感が出てきたのである。何事に関しても絶対的より相対的な言葉のほうが現実に近く、使っていて気が楽になるのである。「どことなく」とか「なんとなく」と言った言葉もよく使うが、それは「それほどの意味もなく」という曖昧な表現で、それ故に親しみ深く感ぜられる言い方である。そのような何かに直接こだわらない言葉が使いやすくなってきた。歳を取ってきたからだろうか。「おかげさまで」と言う言葉は年寄りの言い方で、子どもが使う言葉ではないのも同じ理由からだろう。「どこからともなく」匂ってくる梅が香が路地に漂ってくる。まさに梅の季節だ。
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「道」も「路」も訓読みではどちらも「みち」と読み、音読みでは「どう」と「ろ」となり、異なっている。二つ合わせると「道路」(どうろ)となり一般的になるが、それは歴史的には新しい使い方であるようだ。「路」は時には「じ」とも読む。特に前に固有名詞が来ると「じ」と読むようだ。「近江路」「箱根路」「甲斐路」と言った具合に読むのである。そもそも道と路はどのように異なっているのだろうか。私たちはなんとなく理解していると思っているが、その使い方はさまざまである。一応「道」は大きく、公の意味を持ち、「路」の方は比較的小さく、私的な感じがする、この感じは間違ってはいないと思うが、文脈によって様々な変化が加担してくる。それに「径」や「途」も「みち」と読み、さらに複雑にややこしくなる。 Read More →

裏を見せ表を見せて散る紅葉 良寛

どこの言葉にも、前後、左右、上下、内外、遠近、長短、あるいは善悪、美醜、貧富、聖俗、のように相反する事態が対になった言葉がよく使われる。数えればきりがないほどある。それらの言葉は確かによく対の形で表現され、ことさら考えることもなく無意識的によく使うが、その関係にはそれぞれ微妙なところがある。その中に「表裏」という対の言葉があるが、私はこの「表裏」という言葉、あるいはその言葉が指し示す事態に特殊に拘ってきたような気がする。そのきっかけになったのが、先に挙げた良寛の辞世の句である。
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最近、運ー不運とか偶然ー必然とかいう言葉がとても気になるようになった。自分は何によって動かされているのか、自分の意志でやっていることも、実は何かに操られているのではないか、といった古い学生時代からの疑問がまた浮上してきたのである。しかもこれまで生きてきた長い過去を振り返るときに、またその疑問を強く感ずるようになったのである。 Read More →

言葉と物、思考と感性は密接に結びついている。一方が失われば他方もそれに続いて消えていく。切り離せないのだ。例えば、梅雨に降る雨は「しとしと」降る。現今の雨は豪雨に近く、局所的に降る。庭石にしとしとと長く降ることはなくなってきた。それに連れて「しとしとと降る雨」という表現も薄れていく。それに歴史的に長く語られてきた言葉にはそれなりの品格が備わっている。最近言葉がその品格を失い、使うのもためらうような言葉が流布するようになってきている。私たちの意識が社会の動向に翻弄されてしまっているのだ。 Read More →